Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

なんでもないの中に幸せがある

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【はじめに】

はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさんお元気でしょうか?

なんかねぇ。
うちの屋上にやたら種が落ちてるんですよね。
おそらくビワじゃないかなーと思われる種なんですが、
うちの近所は自宅よりも高い建物がなくて、よその家から落ちてきたとは考えにくいので、
ちょっと不思議に思ってたんですが、先日謎が解けました。

カラスが餌となる果物をとってきて食べてたんですね〜。

ま、僕はカラスが好きなので、それならうちで食べてても良いかーって思ってたんですが、
よくよく考えると、カラスにとっては、ここが誰かの所有物なんてことはありませんもんね。
僕の許しなんてそもそも必要ないわけです。
僕が勝手に、よしゆるそう!ってやってるだけで、これもまた、大いなる独り相撲ですね。

きっと人間だけが所有という幻想の夢に浮かれているのかもしれませんね。

僕らって不思議な物で、実は何も所有したことがないのに、何も持っていないことについてはとてつもない大きな不安を抱えたりします。

だから、なんにもないということをどこか恐れていて、何かしらを握っておきたいっておもっちゃうんですよねー。

赤ん坊の頃は何にも持っていなくても、一切の不安はなかったはずなんですが、
何かを所有しているという幻想に浮かれ始めると同時に、持っていないという恐怖を感じ始めたのかもしれません。

 

【何を得れば良いのか?】

物覚えがついた頃。なーんて言葉がありますよね。
物覚えとは記憶のことです。僕らが何かを判断する時は記憶の中にある判断基準を頼りにします。
この物を見てそれを自分の記憶の中にある判断基準を通す。
この働きがで始めた頃こそが、物覚えがついた頃だというわけですね。

そして、物覚えがつくとなんでもかんでも、あらゆる全てのことを自分の中にある判断基準を通して掴み取るということをやり出すわけです。

そうすると、とっても大事なのがこの判断基準ということになりますよね。
これが間違ってると、世界を変に歪んだものとして掴み取ってしまいますからねー。

だから、何かわからない時には、これはどういった判断基準を採用すれば良いの?
と、判断基準を得ようとしちゃうんです。

この習性が、どうしても非二元のメッセージと相容れないところが、
本当はシンプルでものすごく簡単な非二元話がややこしく感じる大きな理由なんだと思います。

【直すところがない】

そもそもねー。
この話っていうのは、何かを直す必要はないってことなんですよね。
受け入れるとか、手放すっていうのもね。
一見真逆の言葉に見えますが、指し示しているのは同じことで、直すところがないってことなんです。
だから、そのまんまを受け入れましょうねーと言われておりますし、手放すというのは、何を手放すのかというと、直そうとする思いを手放しましょうねー。ということなんですよね。
直すところがないので、何か新しい判断基準を手に入れようとすることでもありません。
ただ、その手に入れたいという衝動を置いておきましょう。
っていうお話なんです。

【良いも悪いもない】

そもそも、良いと悪いもありません。
これも判断基準を手に入れてから生まれた概念なんです。
だから、判断の通して世界を見ていると、どれが良いのかどれが悪いのか?
というのはとても気になっちゃうものですが、それもこれも判断を通した世界だけの話なんです。

ま、こういう話をしていると、
じゃあ、あなたは何をされても許せるということなんですかー!
みたいなことを聞かれちゃうんですが、
これって、良いも悪いもないをあなたは判断基準として持っているってことですよね?
ということになるのでねー。

いやー。そういうことじゃないんだよー。ってなっちゃうんですよね。

良いも悪いもないを判断基準にして生きていこう!っていう話じゃないんです。

これは、サッカーをやっていて、ボールって実は手で触っても良いんだよ!
でも、サッカーをやっている間はそれがダメってことでプレイしようねーということになっているんだよね。

って言っているのと似ています。
だから、サッカーではボールを投げずに蹴るわけです。
それになんの問題もありません。

ただ、サッカーをやっていることを忘れていると、どうしてもボールを手で触りたいのに、なぜ触ると笛を吹かれるんですかー!
私は足が不自由なので、うまくサッカーができないんです!どうすれば良いんですかー!

ってなっちゃうんですよね。

うん。
例えがすごく下手ですが、下手な例えだということを差し引いて読んでいただければ幸いです。

【なんでもないの中に幸せがある】

僕らの不幸は、判断基準によって生じてたりするわけです。
だからね。もともとは不幸はなかったんです。
赤ん坊は、この世の行く末や老後についてに悩んだりはしませんからね。

つまり幸せって元々の状態なんですよね。
だから僕らは元々に帰ってくればもう幸せなんです。

この元々こそがなんでもないものなんですねー。

ですが、僕らはなんでもないに恐怖を感じているので、どうしてもそれを避けたがるんです。
でも実は何も持っていないんですよね。
だから、直すところもないんです。

それを認めんとする思考だけが働いているというわけでして、
僕らはここから離れたこともないんですよね。

 

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