Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「〜であるべき」の奥に隠れている大いなる愛

はじめに

はい。
どうもおはようございます。
美空ひばりさんの曲の中では
「愛燦燦(あいさんさん)」が好きな
タクさんです。

いやー。
いいよね。
愛燦燦。

過去はまつ毛に憩うんですよ。

なんていう詩的な歌詞なんだ!

愛っていうのは基本、見逃されやすいんですよね。
そして、見逃されているから僕らはそれが無いと勘違いしているんです。

なんていうか、どうでもいいことってね。
愛そのものなんですよね。

そして、愛が無いと勘違いして探し求めるわけですが、
実はもうここにあるんです。

あるものを無いと思い探し求めるっていうね
そんなおっちょこちょいなのが、人なんです。

だからこそ、人っていうのは可愛いんですよねー。

あと、
「おっちょこちょい」という言葉の響きも可愛いですよね。

 

「〜であるべき」は悪くない

さてさて。
ここではよく、あるがままで完璧なんだよ〜。
ただ僕らは、
「〜であるべき」っていうね。
いわゆるルールにだまされているだけなんよ〜。

でも本来はね。
良いも悪いもないんだよ〜。

ってなことを毎日飽きずに書いておるわけですがね。

そう聞いちゃうとね。
「なにぃ〜!私は[〜であるべき]にだまされていたのか!」
ってね。
思っちゃって、
この「〜であるべき」が悪いんだ!
これをどうにか思考の中から取り去らねばならぬ!

って思っちゃったりするんですよね。

良いも悪いも無いのにも関わらず、やっぱり悪いものをなんとかでっち上げて、それを取り去ろうとするんです。

そして、悪いものを一切合切取り去ることで、より良い自分を手に入れよう!
としちゃうんですよね〜。

でもね。
「〜であるべき」ってのは、なかなか取り去れません。
だから、この悪しき「〜であるべき」を取り去るにはどうしたらいいんだー!
っていうね。
そんな探求も起こっちゃうって言うのがねー。

ま、なんというか、思考ちゃんのサガでもあるんです。

思考ちゃんの働き

ま、思考ちゃんはね。
何かを分けるという働きですからね。

なんでもないものを分けて、整理整頓するのが思考ちゃんの働きそのものなんです。
だから、思考で導き出された答えは、全て分離した何かなんですよね。
そして、明確に何かを分離する際には、善悪や正しい・間違いと言ったような判断基準で分けるのがとても有効なんですよね。

そして、どちらかが良くて、どちらかが悪いっていう判断基準が使われた場合にのみ、
「〜であるべき」っていう観念が生まれるんです。

そして僕らはいつしかこの観念にがんじがらめに縛られちゃったりするわけです。

「〜であるべき」の奥に隠れている大いなる愛

だったら、やっぱり「〜であるべき」って悪いんじゃーん。
って思っちゃうかもしれません。

でもね。
この「〜であるべき」という思いは決して悪いものじゃないんです。
実はこの思いの奥には、大いなる愛が隠れていたりもするんですよねー。

例えばね。
子育てをしているお母さんがいるとするじゃないですか。
子供を愛するお母さんなら、誰しもが一度は、
「果たして、私は良いお母さんでいられているのだろうか?」
ってね。
そんな思いを抱いたりするものです。

そして、
「私はまだまだいいお母さんじゃない」
って思うこともあるかもしれません。

この思いの奥には子供に対する大きな愛が隠れているというわけですねー。

もちろん、
「〜であるべき」がとても自分勝手な理由によって生じている!
と感じる場合もあると思います。

でもこれもまた、自分という物に対する愛ですし、
この自分に対する愛っていうのも、実は誰かや何かに向けての自分だったりするわけです。
良くあるのが、親にとっても自分だったりするんですけどね。

「〜であるべき」は深い愛でつくられている

なので、「〜であるべき」という思いは悪いものではないんです。
ま、そう言われると、色々と悪い理由を探し出そうとするのもまた、思考ちゃんのサガな訳ですが、
なんで思考ちゃんはこういうことをするのか?というと、
これもやっぱり、何かから自分や、自分の大切な人などを守りたいという働きですからね。
これもまた、やっぱりその奥には大いなる愛があるわけです。

だからね。
「〜であるべき」に縛られてるなぁ〜。
と感じたなら、

私ってば、深い愛があるんだなぁー。
って思ってればいいんです。

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