Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

アホの許しは自由への切符

はじめに

はーい。
どーもおはようございます!
タクさんです。

カラスやシジュウカラという鳥は、どうも言語を持ってるらしい。
ということでね。
鳴き声から、その鳴き声がどのような言語の意味を持っているのか?
という研究が行われているんですけどね。

そこで、シジュウカラは単語と単語を組み合わせて簡単な文章で会話している。
なんてことも分かってきたらしいです。

いやー、面白いですねー。
公園なんかで鳥がいろんな鳴き声を奏でてますが、鳥も僕らのようにいろんなことを話してたんですねー。

でね。
そこでちょっと気になったことがあったんですよ。

それは、カラスやシジュウカラはその使っている言語で嘘をつくことはあるのか?
ということです。

動物も生き抜くために、擬態をしたり死んだふりをすることはよく知られています。

でも言語で嘘をつく動物というのは、人間以外に聞いたことがありません。
ただ、もし鳥が嘘をついちゃうと種族の危機になるとおもうんですよね。
そのうち他の鳥の鳴き声を信じられなくなって言語自体が崩壊してしまうなんていうオオカミ少年のような事態にもなりかねません。
だから、そんな不効率な嘘をつくことは鳥の世界ではないんじゃないかなーって思うんですよね。
ゆーても、使ってる言語もかなりシンプルですしね。

ということはですよ!
ちょっと怖い話なんですが、
人間が鳥の言語を研究を始めたことによって、鳥は初めて嘘という概念にぶち当たってるんじゃないか?
って思ったんですよ。

なぜなら、鳥の言語を意味を調べるために、いろんな鳥の鳴き声を録音して、他の鳥にきかせることによってどのような行動を取るのか?を調査して意味を調べているらしいんですね。

例えば、
「ここに餌があるぞー!」という鳴き声を鳴らしてみたら、鳥がやってくるのか?
を鳴き声の録音を鳴らすことによって調べてるんです。

つまり、鳥からすると、餌があるという鳴き声が聞こえたから来てみたら、餌なんてないじゃん!ってことが繰り返されているわけです。

つまり、鳥にとっては、初めて嘘をつかれてるということになるんですよ!

嘘をつかれた鳥たちの言語はその後どうなっていくんでしょう??
なんか興味がそそられますねー。

 

・思考というおもちゃ

この言語というものは、もちろん思考力というものに裏打ちされます。
思考力というのは、ないものをある「てい」にすることができるという力でもあるんですけどね。

僕ら人間はこの思考力の面白さに魅了され、ものすごく複雑な言語体系を作ってきました。
嘘ももちろんありますし、
なんなら、小説のように嘘を前提として楽しむなんていうこともできちゃうわけです。

さらには、元々は嘘だったんだけど本当にあるかにように錯覚されているようなものを大量に作り出しちゃったりして、もう言語や思考を使って元々の世界をすっかり別のものに変えちゃったりもしてるんですよね。

だって、元々国境なんてものは存在してませんもんねぇ。
でもそれが当然に実在するかのような世界を作ったり、言語も1種類じゃなくてものすごい数の言語を作り、文化も作り、同じ人間という種族の中にも、肌や目の色や属する文化圏によって種類分けをしたりとやりたい放題です。

そして、それらはすべて思考によって作られたでっち上げなんですよね。
僕らは、この思考というおもちゃにハマりまくってるのかもしれません。

・思考の奴隷

ほら、ゲームを楽しむにはそのゲームのルールに詳しくなることが重要ですし、さらにはそのゲームで何度も繰り返し遊ぶことが重要じゃないですか。
僕らも、毎日この思考というゲームに興じ、夢中に遊んでいた結果、そのゲームがまるで真実であるかのように錯覚しちゃっていたりするんですよねー。

そして、思考というゲームの中では、よりいろんなことを知っていて、より「かしこ」であることが良いとされています。

さらには、どんなことも「かしこ」であれば、より良い選択ができ、良い選択がより世界を作り上げるという幻想を抱き、この選択の責任を自分に課しているわけですねー。

だから、自分は他の人と比べて「かしこ」じゃなかったり、知っていることが少ないと感じることで「足りない自分」という幻想を作っちゃうんです。

そうやって僕らは思考の虜になってしまい、思考の奴隷のような感じになっちゃうんですよねー。

・アホの許しは自由への切符

だからね。
まずは、アホな自分を許してあげたらいいんです。
いいですか。
人間ってみんなアホであり、そしてアホであるからこそ可愛いものなんです。

いろいろ勉強して「かしこ」になったつもりでもアホなんです。
アホがデフォルトなんです。

あとは、この自分のアホさは本当は可愛らしさである!ということを認め受け入れるだけです。
受け入れられなーい!って言ってるアホな自分もまた可愛いんです。
そして、それでいいんです。

このアホの許し、アホの受け入れこそ、「かしこ」探求の終わりです。
そして、思考から自由になるんです。

 

 

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