Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

全ては全自動とか、わけがわからんっ!

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

よくね。
すべては全自動だ!っていうじゃないですか。

あれねぇ。
わかりにくいですよね。

確かに、朝、太陽がのぼり、夕暮れになると太陽が沈んでいく。
これについては確かに誰かがそうしているわけではないということはわかります。

誰かがそれをやっているわけではなく、全自動でそうなっていますもんね。
いくら明日の朝の日の出は10時にしたいっ!って思ったところでどうにもならないですからね〜。

天気もそうですね。
季節は移り変わり、雨の日もあれば晴れの日もある。
これも誰かがそうしているわけではなく、自動でそうなっています。

まあこういう自然のことについては、誰かがやっているわけでなはいし、
全自動でそうなっているのはわかります。

でもやっぱり、自分のこととなると、それについてはやっぱり自分がやっているんじゃないの?って思いますよね。

というわけで、今日はこの全ては全自動について書いてみたいと思います。

 

・本当に自分がやっているのか?

では、この自分のことについて、本当に自分がやっているのか?と言いますと、
やっぱりこれもよくよく観察してみるとやってないんですよ。

もし、自分のことは自分で決めているのであれば、やっぱりもっと足を長くしたり、
もっとイケメンにしたり、もっと頭の回転を早くしたり、声をもっとダンディーにしたいものですが、そうもいきませんもんね。

生まれつきってものがあります。

じゃあ、生まれつきは誰かがやっているわけではなく全自動であると認めたとして、
でもその後は自分でやってるんじゃない?って感じたりしますが、
これだってよくよく観察してみると、やってないんですよね。

・思考は私がやっている?

例えば、「あ!ひらめいた!」というような直感にしたって、
ふと心にそんなひらめきが浮かぶわけですが、そのタイミングは自分で決めているわけではありません。

よーし、5分後にひらめくぞ!とやろうとしてもやれないですもんね。

これって、勝手にそんな思いが湧いてきて、僕らはそれを見ているに過ぎないわけです。

どんな思いがやってくるかも、その思いによって起こる心模様も、
勝手にやってきて、そして去っていくわけです。

そして、あらゆる思いがやってきたあとに、

これは私がやった!
これは私じゃない誰かがやった!

といったような解釈がなされているわけです。

そして僕らはこの解釈にフォーカスすることによって、
私がやった!だとか、誰かがやった!と思い込んでいるだけなんです。

・やりたいことをやればいいよね

ただし、この
「誰も何もやっていない。」
「全ては全自動だ。」
ということを解釈としてつかもうとしても、これまた意味はありません。

これはこれで単に解釈にフォーカスしていることに変わらないですからね。

じゃあ、どうしたらいいのー?
ってことなんですが、

それはもう、自由にやりたいことをやればいいし、やりたくないことをやらなきゃいいだけなんです。

誰も何もやってないなかで、自由に選択し、自由に遊べば良いんです。

自由にやろうとすると、
「でもこれって、まちがってないのかな?もっと吟味すべきじゃないかな?」
「本当に自由でいいんだろうか?もっとちゃんと考えるべきでは?」
みたいなね。
そんな思いも湧いてくるかと思います。

そんな、ぽろぽろと湧き上がってくる「〜であるべき」を
ポイポイっとゴミ箱に捨てていけば良いんです。

「〜であるべき」って捨てちゃえば、全然「べき」じゃなかったことがわかりますし、
すべてはただの解釈だったことも分かってくるんですよね。
そしてそのうち「私」というものもまた、解釈の一つだったことを知るんです。

 

 

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