Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

僕らはただの気づきである

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

中高生の頃って、やたらと散髪に失敗しませんでしたか?
僕なんかは天パーなのでよく失敗しました。

ま、散髪屋さんが悪いんじゃなくて、
きっと僕のイメージが非現実的なのと、伝え方が悪いんでしょうけどねー。
ただ、当時僕が良く行ってた散髪屋さんは、何も言わないでいると、
モミアゲを真っ直ぐにカットされるんですよねー。

これだけは、勘弁して欲しかった。。。

皆さんの青春散髪物語はどのようなモノでしたでしょうか?

失敗するとねー。
あー、早く髪の毛よ!伸びてくれー!って願ったモノですよね。

今は、もうオッサンになってしまったので、
あの時のように見栄えへのこだわりは無くなりましたが、
人はいつから、自分の見栄えのこだわりを持つようになったんでしょうね。

ウチの金魚ちゃんたちは、みんなとってもカワイイんだけど、
そんな自分の可愛さについて一切気にしていない様子です。
それもまた、カワイイんですけどね。

 

僕らは何をコントロールできているんだろう?

さて、
僕らは、髪の毛が伸びるスピードを一切コントロールしてません。

同様に、
足の爪の伸び方も、
心臓の鼓動も、
食べ物の消化も、

さらには、
好きな食べ物も、
好きになる人も、
嫌いな人も、
嫌いな食べ物も、
生まれる日も
身長も、
当たり前ですが、顔の形や肌の色から目の色も、

一切、自分で決めてないんですよね。

ただ、
「これは好きだなー!」と感じたり、
「これは嫌いだなー!」と感じたりしているだけです。

これを好きになろうとか、嫌いになろうなんてことを自分では決めていないんですよね。

ただ、これは好きだ!これは嫌いだ!
髪が伸びた!爪が伸びた!と気づいているだけなんですよね。

そしてもちろん、
それは思考や心も同様なんです。

自分という幻想

僕らは、なぜか思考や心については
「自分がやっている!」
って思い込んでいるんです。

そして、自分でやっている!と思っているからこそ、
それをうまく管理しコントロールしなければならない!
と思い込んでいるんですよね。

ま、これはある意味仕方がないことでしてね。

自分という観念もまた、思考の中にだけ存在するモノだからなんです。

だから、なんとか自分でコントロールしようと右往左往し、うまくコントロールする方法を探求するわけです。

僕らはただの気づきである

そんな探求を一旦置いておいて、
思考や心の感覚を観察してみたら良いんです。

どのように観察するのか?というと、
これは自分がやっているのではないよね。
ただ、起こってきただけだよね。
ということを観察してみるんです。

すると確かにその考えは、自身が考えたのではない。
ということが見えてくると思うんです。

なぜ自分は望みもしない考えを思ってしまうのだろう?
ってね。

それもそのはず。だって自分が考えているわけではないからなんです。

ただ、その考えが。
ただ、その心の状態が起こっただけなんです。

僕らはそれに気づいているだけなんですよね。

この気づきもね。誰かが何かに気づいたんじゃないんです。

「私がこの事に気づいたんだ!」
という思いも、ただの考えであり、それはただの解釈にすぎません。

誰かが何かに気づいたのではなく、ただの気づきなんです。

気づきがココにあるだけなんです。

「神はいつもアナタを見守っています。」
「裁くことなく、常にみているんです。」

なーんて言われていたりしますけどね。

その神こそが本来のアナタだったというわけですね。

厳密に言えば、アナタですらなく、その気づきだけがあったんです。
何の解釈も通さない気づきです。
だからそこに裁きも解釈もないというわけなんです。

 

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