Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あらゆるコトは起こっては消えていく。もうそれだけだよん♪

はじめに

はーいどうも!
おはようございます。
タクさんです。

うちの家は3階建になっているんですが、
自分の部屋は3階なので、別の部屋にモノを取りに行ったりするのに階段で降りるわけなんですけどね。
降りてあれこれとやっている内に、何をしに降りたのかをよく忘れるんですよね〜。
そして、部屋に戻ってから思い出すっていうね。

ちなみに冷蔵庫を開けてからなんで開けたのかを忘れていることもよくあります。
皆さんは冷蔵庫を開けたあと、「??」となることはありますでしょうか??

さて、いわゆる悟りだとか目覚めだとか気づきでなにかが変わるのか?
ってなことをよく聞かれるんですけどね。

別に何も変わらないんですが、深刻さはかなり減るんですよね。

なぜこの深刻さが減るのか?というと思考は事実でも真実でもないということを知るというか思い出すからなんじゃないか?
と感じています。

もちろん、恐怖も怒りも悲しみも起こるんですけどね。
それを不必要な形で持ち続けなくなりますし、今後、嫌な感情が起こったらどうしよう?といったような心配もなくなっていくわけです。

だって、思考なんだから別にどんな感じになってもいいじゃん!ってことですし、そもそも思考は誰もコントロールしてないですからね。
天気に文句を言っても仕方ないじゃん!って感じになのかも知れません。

ま、これはあくまで副作用的に起こることなんですが、誰もがそうというわけじゃなく人によるんだと思います。

さて、もう一つ僕個人的にいわゆる気付きの弊害があるのだとしたら、
冒頭のような物忘れなんですよね〜。
完全に忘れるのではなくて、「お!そうだった!」と思い出せる感じの忘れ方なんですが、
いわゆる「忘れたらヤバい!」っていう深刻さも減っちゃうんですよね。
ここが忘れる原因なのか?と思ったりもしますが、深刻さがあってもよく忘れ物をしていたのでホントのところはよくわかりません。

 

主体と客体という思い込み

思考ちゃんは全てに主体と客体がある!と思い込んでいるんですよね。
実際には、何でも無いものにわざわざ、主体と客体という概念とくっつけてストーリー化しているのが思考の働きそのものなんですが、そういった主体と客体が元々あるものだと錯覚をしているんです。

なので、何かを食べると「自分がそれを食べた!」と思い込みますし、
何かを見たなら、「自分がそれを見た!」と思い込むんです。

まるで催眠術のように、その思いを繰り返し刷り込まれていきますので、
まるでその思考の解釈を真実や事実かのように感じるんです。

そのうち、僕らはなにやらよくわからない仮想の「自分」という枠をつくり、自分とこの世界は分かれているかのような世界観を持ち、この世界にはあらゆる個別のものが各々分離して存在していると思い込んでいたりするんです。

感覚だけがある

Don't think! Feel.
ってね。ブルース・リーも仰ってましたが、この後に続くセリフもありまして、
月を指差すこの指をみてもダメだよ!的な話をしていて、きっと仏教的な比喩の話だったりするんだと思うのですが、Feelとは「感じる」ということです。

考えずにいると、この感じるだけが残るんです。

この感じるということ。いわゆる感覚ですよね。
これって、誰かがやっているわけじゃないですよね?

味を感じている。
足の感覚を感じている。
寒さや暑さを感じている。

これらの感覚も誰かが感じようとする以前にもう感じているんです。
味とか、足とか、寒さとか、そういった言葉はすべて後付けの解釈であって、
あるのは、ただの感覚。そこでは誰も何もしていないはずです。

感じようとしなくても、考えるのをやめれば、ちゃんとこの感覚だけが残るんです。

そして、これこそが真実であり事実なんです。
とてもシンプルですよね。
シンプルすぎて思考ちゃんにはよくわからないんです。

つながりという幻想

まず感覚があり、その後に解釈が付き、僕らはこの解釈を事実として扱うのですが、この際に「自分」という主体の解釈も登場するんです。

ですが、実際にはあらゆることは自分無しで進んでいます。
思考もまた同様で、自分無しで起こっているんですよね〜。

そして、この思考があらゆる解釈を繋げてストーリー仕立てにしているんです。

ですが、あらゆることは起こっては消えていく。
もうこれだけなんです。

それらに因果の繋がりもありません。
つながりを作っているのもまた思考と記憶なんです。

 

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