Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

目覚めとは、思考からの目覚めなんです。

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

時々ね、
「自由意志はあるんですかー!ないんですかー!」
ってな質問をいただくんですよね。

この自由意志があるのか無いのか?
これって、思考ちゃんにとってはとっても大事なことだと思うんです。

なんせ、思考ちゃんの存在価値を問われているわけですからねぇ。

思考ちゃんはなんでも「自分」で考え、「自分」で人生の舵取りをしている。
そして、それこそが思考ちゃんの役割であり、使命である!
ってことですからね。

「自由意志?そんなの無いよ!」

って言われたら、えらいことなんです。

ですが、思考というものは、何かを決定し道を切り開いていくようなものじゃないんです。

それよりは、起こったことに上手く脚色を加えてストーリーとして演出する。
ストーリーテラーのようなものなんです。

起こったことに対して実況する、実況アナウンサーと言ってもいいかもしれません。

それが思考ちゃんの役割であり機能なんです。

 

自由意志はあるのか?

じゃあ、思考には全く自由意志はないのか?と言いますとね。
多少はあるんですよ。

それは、道の真ん中を通るか?端っこを通るか?
くらいの自由です。

どちらを通ったところで、行き着くところは同じになりますからね。
どっちを通っても良いんです。

僕らが選択を迫られるときって、真ん中か?端っこか?
どっちを通っていく?
みたいなことですのでね。

どちらを選んでも良いんですよね。

また、これもまた、誰かが選んでいるのか?というとそうでもなく、
誰も何も選んで無いんです。

ただ、葛藤という心持ちが起こっているだけなんです。

誰も何も選んでいないしやっていない

ただ、自分が選んでいないというのがどうにも腑に落ちない!って感じるかもしれません。
でも選ぶ前に僕らはすでにこっちだ!ってなってるんですよね〜。

これね。
別に不思議な話ではなくて、
たとえば、イモ味のアイスクリームとイチゴ味のアイスクリームがあるとするじゃないですか。
そして、自分はイチゴ味が大好きだったとしましょう。
そうすると、自然とイチゴ味のアイスを選びますよね。

これ、選んだと言うよりは、イチゴが好きだからそうなったわけです。
たまたまイモよりイチゴのほうが好きだっただけなんです。
イモに興味がないから、
「なにイモ味って、イモねぇ〜。」
ってなってるわけですね。

そして、イチゴが好きになるっていうのは自分では選んでいません。
ただ、勝手にイチゴ味に惹かれただけなんです。

虫が夜になると光に群がるのも、
虫が光の方向を選んで飛んでいるのではなく、
光に惹かれるように勝手にそうなってるだけなんです。

僕らは何かを選んでいるように見えて、最初にこっち!ってなった後で、
選ぶという思考のストーリーをあとから付けているだけなんです。

思考からの目覚め

そもそも、背の高さに目の色に髪の毛の伸びる長さに身体のあらゆる神経機能。
これらには誰も関与していませんよね。

関与してなくても、ちゃんと呼吸はするし心臓は脈打ちます。

誰かがそうしているわけではないんです。

思考も同じなんです。
ただあらゆることに解釈を加えているストーリーテラーなんです。

ただ、厄介なことに、このストーリーを現実と錯覚してしまうと、
その夢の世界にどっぷりと入っちゃうんです。

このストーリーを現実としてしまう錯覚が見抜かれることで、
その夢から目覚めるんですよね。

これは、夢の中で夢と気づくのに似ています。
夢の中で夢と気づくと、目覚めが近いんです。

同じように、思考が思考だと気づいてくると、
そろそろ、思考からの目覚めが近いのかもしれません。

 

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!