Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

静寂はずっとここにある

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

僕らの目ってね。
全体を見ることって出来ないんですよね〜。

全体を見ようとすればするほど、全体がボケるんですよ。

そしてなにかに注目するとピントが合うんです。
逆に注目していない他の部分はボケたままです。

ちなみにねぇ。
僕らって今でこそ、普通に人の顔とかにピントを合わせることってできるじゃないですか。
でもね。
これって、人の顔を知っているからこそなんですよね。

知らないと、最初はピントが合わないんですよ。

ですので、知らないものってちゃんと見ることが出来なかったりするんですよね〜。
面白いですよね。

 

目と思考ちゃんの関係

「目は口ほどに物を言う。」
なんて言葉もありますが、目というのはかなり思考とも繋がっておりまして、
見たいものだけを見てるんです。

ですので、全体をちゃんと見るということは出来ないんですよね。

思考ちゃんもまた同じで、興味がないことについては考えることすら出来ません。
考えたいことだけを考えているんです。

また、思考ちゃんもピントを合わせることによって、あらゆるものを分離して捉えます。
この分離がないと、捉えることが出来ないんです。

なので、思考の中にあるものは全て分離されているんです。

人間同士が言い争いになるのも、この分離の仕方による言い争いがほとんどなんです。

分離の仕方とは捉え方なんです。
この捉え方の違いで、こっちが正しい!いやあっちが正しい!と争うんです。

最近良く話題に上がるLGBTQってのもそうですよね。
このラインまでがワシの領地じゃ!いや、こっちのラインが正解じゃ〜!
ってな争いもそうです。

ですが、どんな捉え方も正解はありません。
そもそも分離はありませんので捉え方もないんです。
そして分離のない全体は思考で捉えることは出来ないんです。

捉え方を求めているのは思考

つい僕らって、わからないことがあれば、
どう捉えれば良いのか?という捉え方の正解を求めようとするんですけどね。

確かに、ルールがあるものについてはその捉え方で良いんです。
勉強にしろ、仕事にしろ、投資だとか趣味だとか、
こういったものには、その奥にルールがありますからね。
このルールを探り、より正解に近いと思われるルールを捉えるというのはあると思うんですよね。

ただし、このルールというのは常に変化していくものですので、このルールの変化にも目を配らなければならないわけです。

ですが、こういったルールが存在するのは思考の幻想の世界の話なんです。

この幻想の世界へのこだわりが思考への執着になるわけです。

静寂はずっとここにある

とっても静かな静寂の中、うるさい選挙カーが名前を連呼しながら近づいてきたとしたなら、
せっかくの静寂がこの選挙カーによってかき消されたかのように感じますよね。

そんなとき、このうるさい選挙カーをどかさない限り静寂は取り戻せないように感じたりするものです。

ですが、実は静寂というのは失われてはいません。
ただ、選挙カーの喧騒にフォーカスしているだけなんです。

思考も同じで、あれこれと思考が現れていても、静寂は消えていません。
ドンと今ココに静寂は鎮座しているんです。

ただ、思考にフォーカスしているから消えているかのように錯覚しているだけなんです。

フォーカスしてしまうのは思考への執着があるからで、この執着の元にあるのが探求のエネルギーなんです。

 

 

X(twitter)もやっております。
どうかフォローしてやってくだせえ!
メッセージなどで繋がりましょ〜!

https://twitter.com/TakuTakuteto