Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

比較の概念について

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何かを掴み取らないと始まらない

ふぇーい。
おはようございます。
なんだか最近仕事が忙しく消耗気味のタクさんです。

まーにしても、仕事ってヒマな時はヒマなくせに、
重なる時は重なりますね。
と、いうわけで、今日も進めていきたいと思います。

僕らってね。
何かを掴み取る。
つまり、何かをわかったことにしないことには、
何も始まりませんよねー。

僕らの現実は、
自分という概念を中心に、いろんなものを掴み取ることによって始まります。

なので、何かをわかったことにして現実を進めようとする働きはもう思考ちゃんのお仕事のようなものなので、これはなんとしても進めようとするんですよね。

そして、この思考ちゃんの作る現実は、ただのイメージだけだと、リアル感が演出できないので、体の感覚や五感をうまーく連携させて、リアル感を演出しているというわけです。

まさにVRに体感を付け加えたような体験ですね。

でね。
この何かを掴み取るというのは、本来は人つながりのものを、
整理することによって成り立っているんです。

そして、整理するには分類しなきゃなりませんよね。
この分類作業が分離感を生み出すっていうわけですねー。

 

分離感と比較の概念

でね。
この分類によって僕らは分離感というものを作り出すわけですが、
この分類によってもう一個生まれるものがありましてねー。

それが、比較の概念なんですよね。

僕らは分類によって、自分とその他をわけます。
そして、自分というものを測るのに、どうしても比較の概念がつきまとっちゃうんですよね。

そして、この分離感と、比較の概念がねー。
どうしても苦しみの原因になりやすいんですよね。

優劣と正誤

比較の概念によって何が生じてしまうのか?
というと、優劣の差という概念もそうなんですが、
正しさと間違いという概念も持っちゃうんですよねー。

そもそもね。
優れているとか劣っている。
みたいなね。
そんな優劣の差というのは、
なーんていうか、ルールがないと存在し得ないものなんです。

このルールというのはねー。あくまでも架空の設定に過ぎないんですが、
この架空の設定を真実だと認定してしまうことによって、
この優劣というのもまた、真実として捉えられてしまうことになります。

正しさの探求

でね。この優劣によって、劣っている場合に、
「何が間違っているんだろう??」
って考えちゃうんですよねー。

だから、正しさを求めて探求しちゃうわけなんですけどね。

まー、この場合の正しさというのは、
採用しているルールによるものであって、
人として正しいのか間違っているのか?
というのとは全然違うものではあるんですけどねー。

どうしてもそこで自分を責めちゃうわけです。

そして、責められた自分は傷つき、この傷をまた埋めようと、
より優れた何かを求めるわけです。

ただ在ってみる

だからねー。
こういった一連の仕組みから、ちょっとだけ離れてみましょうよ!
というのが、一つの提案なんですが、
べつにずっと離れた状態を維持しなさい!という話ではないんですよね。

だから、まだ思考が湧いてくるとか、そういったことで悩む必要性も一切ないんです。

なので、暇があれば、ちょっとこの仕組みを置いておいてみる。
というのをやってみればいいんです。

これらの仕組みは思考の働きですので、それを今だけ、置いておいてみるんですね。

置いておくことによって初めて、このカラクリがだんだんみえてくるわけです。

ただ、このみえてくるというのは、思考によって理解が進むということではありません。
なので、みようとするということでもないんですねー。

なので、単に置いておく。
これしかできることはないんですよね。
あとは、お任せしておけばいいんです。

みようとせず、ただ在ってみるんです。

 

takuteto.hatenablog.com

 

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