Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私は在る。そして私はいない。

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【はじめに】

ほい。
おはようございます。
タクさんです。

私とはなあに?
って問われると、大体の人がきっと、この身体だ!
っていうと思うんですよね。

でも、この身体っていっても、ここに私が入り込む余地って全然ないんですよね。
身体は、何も意図せずとも心臓を動かし、食べ物を消化し、血液は全身を巡るわけですね。
ここに、自分というものが入り込む余地って全然ないんですよね。

「よーし!今日は早めに食べ物を消化するぞっ!」
なーんてことはできませんし、

今日はちょっと疲れたから、心臓の鼓動リズムを遅らせようかな。
なんてこともできないわけです。

では、私とは?自分とは?思考や感情なのでしょうか??
でもこれもまた、身体と同様で、ここに私が入り込む余地がないんですよねー。

「よーし。今日はずいぶん気分よく過ごしたから、明日はちょっとブルーな気分にしようかな!」
とはできませんもんね。

「いやー悲しいわぁ〜。もうしばらく悲しんだ後で、ちょっと怒り入れとこ」
ってこともできません。

私はここで何にもできません。
ただ、私はそれらを観るのみです。

 

【私とは観るものである】

そう、私とは何か??
それは観ているものなんです。
私とは、身体を観るものであり、思考を観るもの。
と言えるかもしれません。

そして、これまた、観るものと観られるもの。
ここに距離はありません。
だから、観るものがその焦点をフォーカスしたなら、その対象がそのまんま観るものと同化することになるんです。

っていうか、そもそも観るものと観られるものは同じものなんです。
ここは分離しておりません。

だから、僕らは思考や身体が、「私」であるという錯覚を起こすというわけです。

ですが、僕らがフォーカスしている時、実は私本体を見失っているんですよね。

【私(本体)はその奥にある】

さて、話はちょっと変わりますが、書ってあるじゃないですか。
書道の書です。

筆でダイナミックに描かれている、あの書ですね。

あの書はもちろんのことながら、紙に描かれております。
僕らは書を見るとき、同時にその紙も見ているはずなんです。

ですが、書の方だけにフォーカスすることによって紙の方は見ているんだけど、ないものにされているんですよねー。

この書ですが、紙がないと成り立ちません。
書だけで存在することは不可能なんです。
必ず、紙とセットになっています。

音楽もそうです。
音は静寂とセットになっています。
静寂がないと音楽は成り立ちませんね。
ずっと音が鳴り続けている状態だとメロディはただのうるさい雑音となってしまいます。

ですが、書に対する紙は書がなくても成り立ちます。
あってもなくても、紙は別に困りません。

静寂もそうです。音が鳴っている時もその奥に静寂はデンと構えておりますし、音がなくても静寂は何も変わらず静寂です。

映画のスクリーンで例えても同様ですね。
僕らは映像をみているつもりですが、そのスクリーンを見ているわけですからね。

【私は在る。そして私はいない。】

もちろん、これらは例えなんですが、この例えが指し示しているもの。
それが「なんでもないもの」なんです。

「なんでもないもの」の上で何が起こっていようとも、なんでもないものはなんの影響も受けず、ただここに在ります。

この在るもの。これこそが私の正体なんです。

「私は在る」とはこのことを指し示した言葉なんです。

ただ、この在るには分離はありません。分離という概念は、スクリーン上で流れる映像の中で行われている演出に過ぎませんからねー。

そして、分離がなければ、僕らが普段「私」だと呼んでいる概念も存在しないんですよね。

だから「私はいない」とも言われているというわけですね。

同時に私とは観るもの。つまり観照者でもあるわけです。
観るものと観られるものは同じなので、「なんでもないもの」と「観照者」は同じなんですよね。

というわけで、ちょっとややこしい話しになりましたが、今日はこの辺で!
また明日、お会いしましょー。

 

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