Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

今に在る。というおはなし

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。

昨日の夜に記事を書いていて寝落ちしてしまったみたいで、今日はちょっとアップ時間が遅くなりました。
そんな、ブログ歴10年のタクさんです。

今読んでもらってるブログは、8年目に到達しております。
その前にも同じようなテーマでブログをやっておりましたので、
それを加えると、だいたい10年以上になります。

「なぜやっているのですか?」
「モチベーションはどこから来るんですかー?」
なんてことをよく聞かれるんですが、
正直、自分もよくわからないんですよね〜。

たしかにね。
こんな記事でも、書けないときは1時間以上かかることもザラにあるんですよ。
ブログがなかったら、早く寝れるのにな〜なんて思いながら、
書いてるときもありますし、
忙しい日なんかは、取り掛かるのが夜中になったりもしてね。

なんとか朝までに間に合わそうと、眠気と戦いながら書いてるときもあるんですけどね。

とはいえ、なんか目的があるわけでもないんですよね。

ただ、なんとなく「やらずにはいられない」からやってる。って感じです。

この「やらずにはいられない」ことをやるっていうのが、結構僕は気に入っておりましてね。
なにかやるのに、それ以外の理由って必要ない!まである!とさえ思っております。

点数とか栄誉とか儲けとか勝ち負けってね。
なんていうか、後々解釈をすれば、そうなってたってだけの話でしてね。
解釈はあくまで後付けのものですので、その解釈を先に持ってくるってのが、ちょっとナンセンスな気がするんですよね〜。

僕らに起こる迷いっていうのも、後付である解釈を先に持ってこようとすることで起こる混乱なんじゃなかろうか?
とも思ったりします。

ま、この記事を通していろんな方と出会えるのも楽しいですしね〜。
いつか、非二元とかの話は一切なしでただただ人狼をして遊ぶ!なんて集まりをしても面白いかも。。。

 

分離によって起こる混乱

さて。
というわけで、今日も同じテーマで書いていくわけですが、
このテーマの根幹にあるのは、分離によって起こる僕らの混乱についてなんだと思うんですよね〜。

僕らってね。
いわゆる体感覚では、全体を感じているんですよ。

何かを食べたなら、その食べているものの味と、自分自身は完全に一体化していますし、
肌に感じる風の感覚が起こっているときは、その風と肌は完全に一体化しています。
聞こえてくる音と自分もまた完全に一体化しているんです。

常にあるのは、この全体性なんです。

目を閉じて、この全体性を感じ取ってみてください。
聞こえてくる音、感じ取れる感覚。それらと自分は一切離れておらず、そこに境界はないんです。

僕らは結構、目であらゆるものを判別するクセがありますから、目を閉じるとそういった全体性は感じ取りやすいかもしれません。

言葉はただの解釈です。

この全体性の中に言葉の解釈はありません。
ですが僕らは、言葉を持って思考する能力を手に入れてから、ありとあらゆるものを言葉の解釈に置き換えることに夢中になっているんです。
思考というおもちゃに夢中になっている感じですね。

思考というおもちゃは、あらゆるものを分離して解釈するというものですからね。

そして、今感じているこの全体性までも分離の解釈の中に組み込んじゃうことで、
僕らはある種の混乱をきたしてしまっているんです。

この混乱は、緊張を生み、連続する緊張感のなか疲弊してしまっている。
って感じでしょうか?

思考は分離のない「今」を仮に分離をして、仮想現実を作り上げるものです。
分離というレンズが付いているゴーグルを着けて世界を見ているようなものなんです。

架空のラインをぽいっと捨てる

この混乱を解きほぐすには、一度分離の概念という一切を置いておいて、
ただ「今」に在ってみる。
それだけです。

ですが、中々この分離を置いておくことができない!って感じちゃいますよね。

それは、分離が真実だと錯覚しているからなんです。

この錯覚から目覚めるには、分離のもとになっている「判断材料」をぽいっと捨ててしまうのがオススメです。

分離には、どこで境界線を引くか?という「判断材料」みたいなものが必要になってきます。
「ルール」と言っても良いかもしれません。
このルールを真実だと錯覚することから、分離もまた真実だと錯覚しているわけですからね〜。

例えば、国境とか県境なんてものも、実際には存在していませんよね。
これは明らかにルールに過ぎません。

同様に、
生と死も、原因と結果も、表と裏も、正しいと間違いも、正義と悪も、
実際には存在していないんです。

ま、そうきくと、思考は躍起になって、生と死の真実性について説明しだすかもしれませんけどね。
これもまた、架空のラインをどこかに引いているに過ぎないんです。
このありもしないラインをぽいっと捨てちゃうんです。

もともとそんなものを持って生まれたわけじゃありませんからね。
捨ててしまって問題ありません。だってそもそも無いものなんですから。

すると、思考ちゃんはどこを掴み取れば良いのかがわからずに混乱することでしょう。
その時、思考ちゃんじゃなく、体感覚に戻ってみれば良いんです。

そして、この落ち着きのない感覚をそのまんまにしてやれば良いんです。
するとやがて、その感覚も消えていき、そこに「今」が残るんです。
そこにただ、在ってみれば良いんです。

 

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