Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

行ったり来たりすれ違い

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

思考からスーッと離れていきますとね。
「あ!確かに思考は思考なんだ!」
ってなことがわかりますし、
「全ての苦悩は思考による演出なんだ!」
ってなこともわかるんですよね。

そして、思考が消えていると、とっても心が楽なんですよね。

だから、
「ホントだ〜!思考が消えるとめっちゃ楽やん!」

ってなるんですけどね。

そうなると今度は思考が戻ってくると、
「うわ〜。思考が戻ってくるとやっぱり重たいなぁ」

と感じたりするんです。

それでね。
なんとか思考から距離を取ろうとやきもきしちゃったりする。

なーんてパターンもよくあると思います。

瞑想もね。
思考から距離を取るということでは良い方法だと思います。

瞑想中、深い瞑想に入ると全く思考が消え失せている。
なんてこともザラにありますからね。

起きていて、意識もあるんだけど深い眠りに入っているのと同じような状態。
意識が広がって全てと同化しているような感覚。
なんてのも感じられますからね〜。

思考から離れると、たしかに、
「おお!これか!」
ってな感覚も感じられたりします。

ですが、ここでよく起こる勘違いとしては、
「この思考から離れた状態をなるべく保つこと。これが悟りなんだ!」
という勘違いです。

この勘違いによって、
「ああ、また思考が戻ってきてしまった。まだまだ悟りには至っていないということか」
という錯覚も起こってしまうんです。
この錯覚に騙されちゃうと、今度は
思考がない状態と、日常の思考まみれの状態を行ったり来たりしちゃうようになるわけですが、それはまだ、思考への執着が残っているからそういうことをしちゃうわけなんです。

 

思考がない状態を保つってことじゃないよ♪

そもそもこの話は、思考を消すことでも、思考がない状態を保つことでもありませんし、当然のことながら考え方を変えるということでもありません。

シンプルに思考は思考だ!ということを知るだけの話なんですよね。
思考は思考だ!ということが本当にわかってくると、思考への執着って消えるんです。
この執着が消えると、許されていないという錯覚もまた消え失せるんです。

許されていないという思いは湧いてくるかも知れませんけどね。
それは思考だということがわかっているという感じですかね〜。

ちょっとややこしいかも知れませんが、執着っていうのはなんていうか「重み」みたいなもんです。
この重みが大幅に減るんです。

重みの正体もバレちゃうことで、重みを重みとして維持するのが難しくなる。
と言ったほうが近いかも知れませんね〜。

苦悩の演出

苦悩というのは、この心の重みと思考のストーリーがうまく噛み合うことで起こる演出なんです。
思考のストーリーが真実であると錯覚することによって噛み合うんです。

そして、この苦悩というのは思考の演出が起きている間しか存在しないんです。

「思考が起こっている間しか存在しないのなら、やはり思考の働きを止めるしかないじゃないか!」
ってね。
そう思ったりするかも知れませんが、これもまた思考です。

思考というのは基本的な特徴がありまして、
それは、より良くなるための「考え方のレシピ」を常に探し続けるという特徴があるんです。
より良いレシピを集めるほど、より良い思考ができるようになり、より良い自分になれる。
より良い自分になるほど、自分が安全安心である。
と思っているんです。
だから、常により良いレシピを探し求めるわけなんです。

ま、そういうわけですので、
「思考が起こっていない状態を保とう!」
っていうのは、まさに思考そのものですし、その思考を真実であると錯覚しているからこそ起こっているストーリーなんです。

 

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