Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「私という自覚」は現象なんです。

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。

葉っぱを振り乱しながら踊る木々を、
カフェの窓から眺めるのが好きなタクさんです。

いやー、面白いもんですよね。
だって、枝という枝、葉っぱという葉っぱを振り乱して踊っているんですもん。

「マジやな!」
って感じです。

まあもちろん、
「いやいや、木がおどってるんやないで!」
「風が吹いとるんや!」
ってな意見もあるかも知れませんけどね。

そんなもんね。
例えばクラブで音楽に合わせて踊ってる人たちがいるとするじゃないですか。
それって、音楽のリズムが楽しくて人が踊っているわけですよねぇ。

だったら、風当たりが気持ちよくて風と共に木々が踊っているとも言えるわけです。

そして、このどれもが全て思考による解釈であって、
どの解釈も平等にただのストーリーである、ということなんです。

「いやいや、風で枝が揺れとるだけでしょ!単純な力学だよ!」

ってね。ちょっとドヤりたい気持ちになる方もおられるかも知れません。

でもそれもまた、そういう力学のお話を聞いたからそういう解釈になっているということなんですよね。

そして、たしかに”一定の条件下”では、その解釈は”正しく見える”だけであって、
そもそも解釈に正しいとか間違いというのは存在してないんですよね〜。

流行り廃りはありますけどね。

あらゆる解釈に価値の差はありません。
それがある(ように見える)のは思考の中だけであり、
正しい解釈も間違った解釈も、思考の中だけにしかなく、
さらに、「あるとない」もまた思考の中だけにしか存在していないんです

 

思考は思考の注意点

そもそも苦悩とは、思考を真実として捉えることで起こる錯覚なんです。
思考を真実だと錯覚すると、思考の中にしか無い苦悩がまるで事実かのように感じてしまう
わけです。そしてこの苦悩をどうにかしようと足掻くほど、この苦悩にフォーカスしてしまうことになり、まるでアリジゴクのように思考のるつぼに巻き込まれていくわけなんです。

その最初のボタンの掛け違いは、思考を真実だと錯覚することにあるわけですね。

この錯覚は思考は思考であるという見抜きによって解消されるわけなんですが、

この「思考は思考であると知る」というところでちょっと注意点があるんです。

それは、
「私が」思考は思考であると見抜こうとする。
というところなんですよね。

思考にも無限に種類がありますよね。
そこで、思考だと気づきやすい思考と気づきにくい思考があるんです。

例えば、
将棋で次の手を考えるのも思考ですよね。
この思考は思考だと気づきやすいんです。

でも思考でも気づきにくいのが、思考でも大御所の土台近くに鎮座している思考なんです。

そんな気づきにくい3大観念。みたいなものがありましてねぇ。

そいつが、
私がいるという自覚。
探求のエネルギー。
時間の概念。

の3つなんですよね〜。

その中でも一番気づきにくいのが、「私がいるという自覚」なんですよね。

この「私」を中心に、この「私」をより良くしようと探求するエネルギーが思考ですからね。

感覚としては「私」が「思考」をしている。と感じていたりしますのでね。

思考を思考として気づこう!なんて聞いちゃうと、

よし!ではこの「私」が見事「思考は思考だ」と気づいて、より良くなろう!
ってなっちゃうんですよね〜。

私という自覚は現象なんです。

逆に言うとね。
この「私がいるという自覚」が思考であると気づけば、全ての思考は思考であるというとっても当たり前のことが見抜かれちゃう!ということでもあるんですよね。
ちなみに思考というのは現象です。モノではありません。

だから、「私という自覚」もまた現象なんです。
つまり、「私という自覚」もまた現象なんだと悟ることが悟りなんですよね。

なので、悟る誰かはいないと言うわけです。なぜなら「私」は現象であり主体では無いからなんです。

 

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