はじめに
はいよっ!
おはようございます。
月イチのアカスリが最近楽しみなタクさんです。
アカスリはサウナに行ったついでに受けることが多いのですが、
最近はサウナブームなのか、たまにスナフキンの帽子のようなのものをかぶった人も、
ちょこちょこ見ますね。
あれワシも買ってみようかなぁ、、、。って思ったりもするんですが、
ちょっと裸に帽子っていうのが、どうにもおかしい感じがして若干躊躇しております。
「お前、そんなに頭を隠したいんかいっ!」
って感じがしますもんねぇ。
みなさんはどのようなアカスリライフをお過ごしでしょうか?
ちなみに、サウナのデトックス効果って微々たるものなんだそうですね。
その点についてはちょっと残念に思っております。
まあでも、サウナ→水風呂ってのを繰り返しておりますと、
ボーッとしてきて、思考から解放される。
なんてことは有ると思います。
いわゆる整った!って奴ですね。
ただ、元気になるか?というとそうでもなく、
体力は消耗するような気がしますが、、、。
思考と苦悩
さて、
苦悩というのは、思考によって起こってますよね。
あれこれと考えちゃうから、あれこれと苦悩しちゃうわけです。
これさえなければ、きっと楽なんだろうな〜って感じますよね。
だからこそ、「思考から自由になりたい!」って感じたりもするわけです。
そして、思考を封じ込めようとしてみたり、
なんも考えないという修行をしてみたりするわけです。
ただ、思考っていうのは、なんていうか物体じゃないので、
封じ込められるものでもないんですよね。
また、何も考えないをやろうとしても、それって結局、何も考えないってことを考えちゃったりしてるわけで、これまた思考から自由になれなかったりするんです。
頑張れば頑張るほどに、思考から自由になれなかったりするんですねー。
ただこれ。
当たり前といえば当たり前なんですが、そもそも僕らはすでに思考からは自由なんです。
だから、自由になろうとしなくてもいいんです。
もともと自由だから、自由になろうとしても出来ないんです。
自由になろうとするから、逆に、「自由じゃないっ!」ていう思考を掴み取ってるだけだったりするわけです。
なぜ、思考は僕らを苦しめるの?
「え〜。でも苦悩してるからには、やっぱり思考によって苦しめられてるんじゃないのん??」
って思う方もおられるかもしれません。
ちなみにね。
思考って、どんな思考でも必ず僕らを苦しめるってわけじゃないですよね。
例えば、
お釣りの計算をしたり、
鶏が先なのか?それとも卵か?
なーんて事を考えていても、別に苦悩しないじゃないですか。
「ああ、先なのは鶏なのか?卵なのか?」
「あー、もうわからん。」
「卵なのか玉子なのかもよくわからん、、、、。死にたい、、、、ぴえん。」
とはなりませんよね?
つまり、思考には苦しいものと苦しくないものがあるわけです。
ですが、実はそれって思考に何か僕らを苦しめる作用があるのか?
というとそういうことでもありません。
そもそも思考は僕らに殴りかかってくることすら出来ません。
僕らに危害を加えることって出来ないんです。
じゃあ何ができるのか?
といいますと、ストーリーによるイメージを見せることができる。
これだけなんですよね。
収縮された思考と解放された思考
じゃあ、なぜ僕らは思考によって苦悩すると感じているのか?
と言いますと、この思考によって演出されたイメージを真実と錯覚し、体が防衛反応を起こすから。
ということなんです。
体の防衛反応というのが、僕らが感じるイヤーな感じなんです。
いわゆる緊張状態ですね。
「やべぇ!死ぬかも!」っていう感覚と広義としては同じです。
これを起こしてくる思考を収縮された思考と呼んだりしております。
ですが、思考はあくまでもスパイス的な要素でしか無いんです。
これはまさに、目の前のロープを毒蛇と勘違いして怖がっている。
っていうのと同じようなものなんですね。
思考のイメージが、いままさに目の前で起こっているかのように錯覚するわけです。
これは、思考というとてつもなく便利な道具による副作用的な働きなんです。
幻想の副作用です。
僕ら人類がずーっとこの幻想の副作用に悩まされてきておるんです。
思考はどう頑張っても僕らに何かをすることは出来ません。
ただ、イメージを見せるだけです。
だから、思考を怖がる必要って無いんですよね。
※ちなみに卵とは、鶏だけでなくカメや魚やカエルも卵といいます。
玉子のほうは、鶏の卵のことをいいます。鶏卵を調理したものも、玉子と言います。
もうこれでスッキリ!ぴえんじゃなくなりますね♪
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