Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自我ちゃんを明け渡すということ

はじめに

はいどうも〜♪
おはようございます。
タクさんです。

好きなビートルズの歌はレリビー(let it be)です。

さて、そんなレリビーですが、皆さんいろんな感じ方があるでしょうが、
やっぱり僕は、「あるがままにあること」を歌っているんだろうなぁ〜と感じています。

そんな「あるがまま」ですが、これは「降参」ともいわれますし、「明け渡す」ともいわれていますね。

あるがままと降参、明け渡す。は同じことを指し示しています。
「そのまんまにしておく」も同じです。

でもやっぱり、降参するには、明け渡すにはどうすれば良いのか?
って思っちゃいますよね。

誰に降参して、何を明け渡すのよ。
って思いますもんね。

というわけで、今日は明け渡すということをテーマに書いてみたいと思います。

 

とっかかり

さて僕らは今、何を考えているのか?
これを整理することって出来ますよね。

「私はこう思っていて、こういうのが嫌で、こうなったら困る。」
ってな感じで、考えていることを整理してまとめることも出来ます。

思考に巻き込まれちゃうことも、まああると思いますが、
そんなときでも、何を考えているんだろう?
って観察することは出来ると思うんです。

ちなみに思考に巻き込まれている場合は、恐れの思考ストーリーに巻き込まれていることが多いんです。
それは恐れの思考は引き込み力が強いからなんですね。

恐れの思考とは、自我ちゃん(エゴ)が恐れていることですので、そういった思考の声は必然的に大きくなるんです。

この自我ちゃんの恐怖を僕らも追体験しているとき、思考のストーリーに巻き込まれていると言えるわけですが、
思考のストーリーがどんなストーリーであっても僕らはこのストーリーをみることが出来るはずなんです。

明け渡しの取っ掛かりは、この思考ちゃんのストーリーを観てみること。
これが取っ掛かりとなります。

ただ観るということ

さて、この自我ちゃん(エゴ)の動き、思考ちゃんのストーリーを観ると、またついついそのストーリーに入り込んでしまいそうになりますが、大事なのは「ただ」観ることですので、ここでストーリーを分析しようとしたり問題を究明しようとしなくて良いんですね。

そして、ただ観ているところに自分をおいてみれば良いんです。

観ているのだから、観ている側の自分(存在)に意識を向けると言ってもいいかもしれません。
これがうまくいくと、ただ観ている存在が在る「ココ」。
この「ココ」は一切の言葉で表現できないところなんですが、そんな「ココ」はとても静寂で今までの思考の喧騒が一切ないことに気づけるかもしれません。

ついつい僕らは思考のストーリーについて理屈で分析してなんとかこのストーリーを解決しよう、この思考を黙らせようとしたくなるかもしれませんが、理屈で思考を黙らせる必要はありません。
ただ、この静寂に在ってみればいいだけなんです。

自我ちゃんの妨害

もしかしたら、
「これがココ?ココに在った所ででどうなるんだ?」
「ん?何も変わらないぞ?」
「あれ?これであってるのかな?」
「なにか進展してる?」

と確かめたくなるかもしれません。
そうなったら、思考のストーリーにまた入り込んじゃってるということなので、
振り出しからやり直せばいいだけです。

「あ、なんか確かめようとしている思考が出てきているなぁ〜」
ってな感じで、それをただ観てみたら良いんです。

そして、観ている者に自分をおいてみるんです。

すると不思議なことに、自分というのは思考の中にしか存在できませんので、
この観ている者に自分をおいた途端、その自分は消えてなくなるんです。

「あれ?なくならないぞ?」
と感じたのなら、これもまた一つの確かめようとしている思考です。
この思考に引っかかったなら、また振り出しからやり直せば良いんです。

そして、静寂のココにただ在ってみるんです。
ココにあった瞬間、もう思考を観る必要はありません。

うまくいくと、静寂に囲まれ、あれだけうるさかった思考もスーッと消えているはずです。

出来ることはこれだけ

出来ることはもうこれだけです。
そこにただ在るだけであらゆる気づきが向こうからやってきてくれます。
それもまた確かめようとせずただ受け入れていれば良いんです。

このただ在るに在ってみること。
これが明け渡しです。

「自我ちゃんは、明け渡して大丈夫なのか?」
「やはりちゃんと考えてなきゃダメだ!」

といった恐怖を何度も演出してくるかもしれません。
自我ちゃんは思考を明け渡すのを怖がります。

これを直そうとしなくても良いんです。
これもまた、ただ眺めてやれば良いんです。
そしてまた、眺めているものに自分をおいてみると、スーッと自分は消えてなくなります。

そもそもこの自分とは自我ちゃんなんですが、自我ちゃんは思考が働いている間だけ存在するように見える架空の存在ですのでね。
思考から離れちゃうともうその「自分」はいないんですよね。

そんな自我ちゃんを明け渡すことで、僕らはあらゆる自我ちゃんの観念から自由だったことを知るんです。

 

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