はじめに
はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。
たまにSNSなんかで流れてくる映像でね。
初めて音を聞いた瞬間だったり、初めて光を見た瞬間の映像があるんですよ。
初めての音や初めての光にとても驚き感動しているというシーンです。
そしてその感動は観ているこちら側も感動しちゃうんですよねー。
光を感じる。音を感じる。
これらが感じられるからこそ僕らはあらゆる景色をみることが出来るし、
様々な音色を味わうことも出来るわけですもんね。
そして、どんな景色も、どんな音色もまさに奇跡的であり感動的なんです。
この奇跡的で感動的な様は初めてモノを観た、初めて音を聞いたという映像を゙観ても明らかですよね。
みんな、この奇跡に心底感動している表情をされております。
音や光だけでなく、手で触れるもの、感じる味に漂う香り。
これらすべてがもう奇跡的なんですよね。
まさに僕らの周りには聖なるもので溢れていて、聖なるものに僕らは囲まれているんです。
昔の日本ではありとあらゆる現象やモノに神が宿ると感じていました。
これはまさにその通りなんです。
あなたの周りには聖なる奇跡で溢れている
古代日本の英雄でヤマトタケルという人がいるじゃないですか。
彼の本名は小碓命(おうすのみこと)と言うんですけどね。
ちなみに小碓(おうす)の「小」はヤマトタケルが弟だからです。
お兄さんの名前は大碓命(おおうすのみこと)といいます。
この碓(うす)とはまさにあの臼です。
製粉したり餅つきをしたりするときの臼の一種なんです。
当時はありきたりな道具であった碓(うす)を天皇の息子の名前に使っているというのもね。
今ではあまりしっくり来ない感覚かもしれませんが、やはり当時はあらゆるモノ、あらゆる道具に神が宿ると感じられていましたから、ウスを名前にするというのは、神の名を拝受するといった意味合いがあるんでしょうね。
そしてもちろん、あなたの周りにも聖なるもので溢れています。
目の前にあるコップはまさに聖なるコップであり、
その中に入っている水は聖なる水です。
そして、床に転がっているゴミは聖なるゴミであり、
聞こえてくる鳥の鳴き声は聖なる鳴き声です。
車のブォーンという音も聖なる調べですし、
窓の外に広がる雨模様もまた聖なる景色なんです。
思考のフィルター
「え〜。でもこの見慣れた風景や転がっているゴミが聖なるものだなんて感じられなーい」
って感じるかもしれません。
っていうか、それが普通の反応だと思います。
まあそりゃあね。
「うわー奇跡的だわぁ〜」ってずっと感動してるわけにもいきませんもんね。
だから、この聖なる成分は常にかき消されるんですよ。
この聖なる成分をかき消すフィルター。
それが思考なんです。
僕らはこの思考のフィルターを通して世界を見ているというわけですね。
思考は安全なもの。すでに知ったと思っているもの。つまりこれは知ったかぶりなんですが、こういったことについてはあまり重要ではないこととして扱います。
だから、慣れ親しんだものは安全なのであまり重要視されないんです。
ですので、思考のフィルターを通すと、奇跡的な「コレ」は慣れ親しんだ平凡なものに書き換えられるわけなんです。
過去や自我ちゃんは、捨てちゃえ
ま、そんな思考は過去で出来ています。
そして、この思考の中心要素に自我ちゃんもいるわけです。
そんな過去や自我ちゃんを捨てちゃえばいいんです。
「え!過去を捨てるなんて怖いし、自我を捨てるのも怖い!」
って感じるかもしれませんね。
でもこの恐怖こそが思考による錯覚なんです。
過去も自我も捨てるとなると、もう一切の過去や自分が消えてしまう。
これはとても恐ろしいことだ!
って感じるじゃないですか。
この理屈そのものが思考によって作られたストーリーなんですよね。
そして、このストーリーを真に受けることが錯覚なんです。
そもそも僕らは過去も自我ちゃんも持ったことがないんですよね。
だから実は捨てるのは、持っているという思い込みなんです。
思い込みを思い込みと気づくことで、僕らは何も持ってなかったことを知るんですね〜。
チャンチャン♪