はじめに
はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。
お笑い芸人の麒麟・田村さんの著書で「ホームレス中学生」という本があるんですけどね。
この本の中で面白いフレーズがありまして、
それが、「味の向こう側」というフレーズなんです。
なんでも、貧乏時代に食べるものがとても少なかったので、田村さんは噛むことでお腹を膨らませていたんだそうです。
そして、白米を長時間噛むことで、どんどんと味はなくなっていくんですが、そこで更に噛み続けるとその先に一瞬ふわっとした甘さがくるんだそうです。
それを田村さんは「味の向こう側」と名付けていた。っていうお話なんです。
たしかこの話は、すべらない話でも披露されていたのでご存じの方は多いかと思います。
と、いうわけで、
きょうはこの「味の向こう側」ならぬ、「何でも無いの向こう側」ということをテーマに書いてみたいと思います。
何でも無いもの。何もしないってつまらなくない?
全ては、何でも無いものである。
あらゆることを置いておいて、ただ在ってみるだけ。
今にただリラックスしてみるだけ〜。
ってね〜。
僕も良く言っているわけですが、
まあこれって、ものすごくつまらないもののように感じちゃうかもしれません。
だって、無ですもんね。
無って退屈で仕方がないですし、それが真実だなんて、
真実ってどんだけつまらないんだよ!
って感じますもんね。
暇つぶし。
なんて言葉もありますが、思考ちゃん、自我ちゃんは
暇な退屈さには耐えられません。
だから、合間があればなんとか思考のストーリーを回そうと必死になったりするんですよね。
ま、それはある意味当然でして、思考ちゃんや自我ちゃんは、
このストーリーが回っている間しか存在できませんからね。
なんとか、この存在を保とうとするんですよね〜。
なので、何でも無いものはものすごく退屈でつまらないよっ!
と洗脳してくるんです。
何でも無いはエキサイティング!
そもそもねぇ。
思考ちゃんや自我ちゃんのストーリーってのは、何でも無いの一部分をつまんで分離させてやってるものですからね。
それよりも広大な「何でも無い」は、もっともっとエキサイティングなんですよ。
ここで、比較の概念を持ち出すのはちょっと変なんですけどね。
そもそも、イノチそのものですからね!ダイレクトなエキサイティングさがここにはあるんですよね。
だから想像するような退屈さだとか、いわゆる静か〜な静寂といった感じじゃなくてね〜。
確かに静寂ではあるんだけど、見た目おとなしいけどその奥にはすごいパワーを秘めている!って感じなんですよね。
ちょっと言葉を尽くすほどに明後日の方向に行ってしまいそうなのでこの辺までにしておきますが、そんな感じなんです。
ともかく、退屈さとは全然違うものなんです。
何でも無いの向こう側
このエキサイティングな「何でも無い」は、何もしない。ただ在ってみるの向う側にあるんですよね。
そんな、何でも無いままに在るが極まってくると、フワッとくる事があるんです。
あえて言葉をあてるとしたら「解放」なんですけどね。
このフワッの向こう側。そこが全てなんですよね〜。
向こう側といいつつも、ココにあるんですけどね。
彼岸とはココにあるという感じでしょうか。
コレのことを「空(くう)」と表現されたりもしますが、
なるほど、無じゃなくて空といったのはそういうことなのね。
というのも納得です。
全然、無じゃないんです。
だから、全てなんです。