Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

外を明け渡すと内側が自然に目覚める

はじめに

くぬぬぬ。
おはようございます。
ちょっと腹痛気味のタクさんです。

腹が痛い時ってなぜか反省しちゃいますよね〜。

「もう冷たいアイスをガツガツ食べるのをやめよう!」

みたいな感じでね。

でも、治ったらこの反省も忘れちゃうんですよねー。

子供の頃に比べると腹痛に襲われる頻度は少なくなってきたと思うんですが、
それでもやっぱり、腹痛だとなんだかいろんなことへのやる気がそがれちゃいます。

みなさんの腹痛ライフがいかがでしょうか?

さて、
今日は、外と内をテーマに書いてみたいと思います。

「外ではなく内側に目を向けてごらん?」

なんて言葉があったりするじゃないですか。

でも、僕らって結構、内側をみているつもりで外側をみている。
なんてことになってたりするんです。

 

内側に目を向ける

だいたい普段僕らは、自分を中心に外側を意識してたりするじゃないですか。
そして、誰かと話したり、何かをしたりしているわけでして、
そこでなにかしら思い通りにいかないようなことがあったり、
誰かが気に入らない場合に、余計にそこに意識が集中するわけです。

そして、何かしらの解決法を探るわけですよね〜。

解決法を探るには、その原因を突き止めなければなりません。
ニオイだって、そのニオイの元を絶たなきゃ解決しませんからね。
それと同じように、なぜ思い通りにいかないのか?何が間違っているのか?
と原因究明に走るわけです。

そこで、原因と思われるものをみつけたなら、そこを改善して、
思い通りにいかない問題をなんとか改善したりしようとするんですよね。

ま、これが普段僕らがやっている、思考ストーリーのゲームの一幕なんです。

勘違いの内側

そう。
これはゲームなんですよね。
何かしらのルールの上で成り立っているものなんです。
ルールというのは思いの中にしかありませんから、それはある種の幻想に近いものがあるわけです。

そんな中、
そういった外の出来事ばかりに意識を向けるのではなく、
内側に目を向けてみようってな言葉に触れたとしたなら、
その時僕らがやりがちなのは、
「自分ではない誰かや何かではなく、自分の方に目を向けるということなんだな。」
と考えちゃうわけです。

自分というのは、思考の中にある一つの観念ですので、
その思考の中の自分に目を向けちゃうんですよね。

そして、自分が持っている(と思っている)過去の記憶や、自分は何を考えているのか?
といったことに目を向けるんです。

そして、自分を見つめることで、思い通りにいかない外への対処法を探ろうとするわけなんですが、ここがちょっと勘違いだったりするんですよね〜。

自我ちゃんは「外」なんです。

僕らが「自分」だとしているものや、その自分が考えていること。
いわゆる自我ちゃんってやつは、内側じゃなくて、外側なんです。
(※もちろん、突き詰めると外も内も無いんですけどね)

また、内側を見るっていうのは、なにも目で見るということじゃありません。

そうじゃなくて、外側の相手をしないということなんです。
そうすると自然と意識は内側へと向いてくるんです。

外側とは思考やマインドのことです。これらの相手をしないということです。
何かを探すのではなく、探すのをやめるんです。

するとね。内側にはなんにも無いと感じられるかもしれません。
このなんにもなさが空であり静寂なんです。

意識をその静寂に落とし、溶け込ませるんです。

探しものをするのではありません。ただその内側に目を向けるだけなんです。
するときっと自然に「私はいない」という感覚が起こるかもしれませんが、それもまた相手にしないで静寂に溶け込むんです。

そのうち、胸の奥から自然と湧き上がる感覚を感じるかもしれません。
それもまた相手にせずに、そのもっと奥へと溶け込んでみるといいですよ。

外を明け渡すんです。すると内側が自然に目覚めてくれるんです。

焦ることはありません。その内側は一切逃げることなくずっと今ココにありますのでね〜。

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