Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

常にココにあるキーンとした静寂

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

ごきげんいかがでしょうか?
今日も読みに来てくださってありがとうございます。

さて、このブログで書いているような話ってねー。
いろんな方がいろいろな表現をされていると思います。

そんな話を色々と聞いていますと、

やれ、
瞑想こそが良いものだ!とあったり、
いや、瞑想なんて関係ない!なんてことも言われていたり、

それは意識だ!と言われていたり、
いや、それは感覚だ!とも言われていたり、

やれ、許しが大切だ!なんて話があったり、
許しとかにこだわるな!とも言われていたり、

体の感覚を感じるんだ!という人もいれば、
五感というのも幻想だ!という意見もあり、、、。

とややこしく感じている方も多いと思います。

更には、
悟りはまだ入り口、今度は遺伝子のオンオフがどうのこうの、
5次元への目覚めだとか、もっと上の次元への目覚めだとか、
龍がどうのこうの、ゲートがどうのこうの、宇宙意識に神意識。
アセンションがチョメチョメで、ハックションがあーでこーで、
と、もっとややこしくなる話もあったりししてね。

一体何が本当なのよぉー!
って言いたくなってる人も多いかと思います。

というわけで、今日はこの辺のことについて書いてみたいと思いますね〜。

 

ややこしいところはカットで

ま、そもそもですけどね。
この話は究極のシンプルさの話ですのでね。
この先に何かがあるだとか、更に上の次元があるだとか、
龍とかゲートとか意識だとか、こういった話はガン無視でいいと思うんですよ。

こういうのは、新たに自我ちゃんにエサをあげているようなものですのでね。
もちろん、こういったスピリチュアル系のゲームを趣味のように遊びたいのなら良いんですけどね。

別にそれが正しいということではありません。
肉体的に生きるというストーリーも精神的に生きるというストーリーも
幻想の世界観という意味では、全部一緒です。
思考で作られたストーリーなんです。

また、非二元とか悟りも一つの哲学的な何かと捉えて、
その中に正しい学びを求めるというのもまた、思考のストーリーそのものですからねー。

この話はそういうことでもないんですよね。

正しさを追い求めるのは思考ちゃんだけ

これってね。何が正しい?っていうのは無いんです。
そもそも正しさを追い求めることこそが思考ちゃんのクセそのものでもあるわけです。

ただ、人によってみんな持ってるこだわりっていうのが違うじゃないですか。
しかも、みんな自分が持ってるこだわりっていうのに気づいてない場合が多かったりしますのでね。
なんだか色々と聞いていくうちに、何かがヒットして反応が起こったとしたならね。
その反応の感覚をただ味わってあげれば良いんです。
解釈は置いておいてね。

思考ちゃんは正しさを追い求めていっちゃいますけどね〜。
そこに乗っからずにいてみるんです。

全否定も全肯定も行き着く先は同じこと

まーねー。
思考ちゃんを手放すためにね。
やたらとよく取られる手法の一つが全否定ってやつなのかな?
って感じています。
出てくる思考、出てくる思考に、違うッ!と言ってやることでそれ以上思考を進ませない。
みたいな感じですかね。

ただ、僕の感覚としては、なんかそれが巷に溢れてるせいで、やたらと否定されすぎてて、
「私は何かが間違っているらしい」
っていう勘違いをされている方が多いんじゃないかな〜って感じたりもしてるんですよね。

違うという言葉は、同時にそれを言ってる人の正しさを押し付ける感じがあるじゃないですか。
そこに引っかかってしまうのも要注意のような気がしているんですよね。

なので、僕がよく好んで言っているのが、全肯定なんです。
「いいじゃんそれで!」ってやつです。
これも狙いは思考をそれ以上回転させないって感じなんですが、
僕としては全肯定のほうが優しい感じがするので、そちらを採用しているだけで別にどちらが正しいってわけではありません。

優しい感じは、なんていうかピースフルな感じこそが正しいんだ。
みたいな勘違いがあることも、重々しょうちはしておるところです。

また、これって思考を手放すのが目的でもないんですよね。
なので、あまりどっちが正しい?にこだわらなくても良いんです。

静寂

ただ、一度手放してみることで、見逃していた事実が顕になるんですよね。
感覚としては、動物的な感覚に近いのかもしれません。
ちょっと違うんですが、感覚をただシンプルに感覚として受け入れるって感じです。
そこで、感覚を解釈に置き換えなくても良いことを知るんです。
僕らは自我が芽生えてからついつい思考過多の方に傾きすぎていたのかもしれません。
一度それをやめて休憩してみるんです。

すると霧が晴れるようにあらゆる解釈の幻想が消え去り、
そこに、生のダイレクトさが発見されるんです。そしてこれが全てなんです。

これが全てだと知ることで、思考もまたあって良いことになるんですよね〜。

これは思考を手放した、何かしらの状態を保つという話でもないんです。

なのでね。
気が向いたときにでも、今ココにある名もない感覚を解釈なしにむき出しにしてやってたらいいんですよね。

すると、キーンとした静寂が、ワクワクが詰まった生命感と共にココにあること。
そしてこれこそが全てであるということが、蘇ってきてくれるんです。

 

セッションをやっております。
詳しくはコチラから↓

takuteto.hatenablog.com