Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

マーラちゃんの策略

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさんは、ブッダの物語を読んだことがありますか?
ブッダの生涯は物語として結構くわしく残っているんですよね〜。
なので、なかなかに面白いです。

ま、もちろん脚色はありますけどね。

このブッダの物語で、瞑想中に悪魔(マーラ)と戦うシーンがあります。
ありとあらゆる策略でブッダを陥れようとしますが、
ブッダはすべてを跳ね除け、そして悟りを開くんです。

このマーラこそ、僕らが普段「私」だと思っている思考ちゃんなんですよね。
煩悩とも言います。
いわゆる巻き込んでくる思考ってやつですね。

この巻き込み力というのは、煩悩の強さによるわけですが、
こいつの元になっているのはいわゆる心の汚れとされているものです。

心の汚れとは、いわゆる思い違いのようなものでして、
こいつがフィルターとなって、僕らはこの世界を正しく見ていない。
ということになるわけです。

「馬鹿」という言葉がありますが、
これは、馬を鹿だと言ったという故事にならっているわけなんですが、
この馬を馬と呼ぶのも鹿と呼ぶのもどちらも正しく無いんですよね。

ま、馬や鹿をどう呼ぼうがこれはあまり心の汚れとはならないんですが、
正しくないものの見方の中でも、変に自分を操ってくるもの。
こいつが汚れとなるんです。

いわゆる緊張感を伴う思考。
僕らが嫌がる不安や苦悩の元となるものですね。

そいつが僕らをぐっと掴んで離そうとしてくれないというわけなんです。

 

マーラちゃんの魅力

ブッダが瞑想中に見た悪魔(マーラ)。
これこそが、自我へと意識を戻そうとする囁きです。
思考ちゃんと呼んでいるモノなんです。

こいつは、
「でも〜」「だって〜」「とはいえ〜」
と言った感じで、常に問いかけてきます。

せっかく何かがわかった!ような気になったとしても、
「で、何が分かったの??説明できる??」
と聞いてくるんです。

そこで、説明した途端、この自我ちゃんという思考のストーリーに一気に舞い戻ってしまうんですよね。

思考のストーリーには、なんとも言えぬ魅力があるものです。
ですので、僕らはついついその魅力に引き寄せられてしまうんですね〜。

マーラちゃんの策略

僕らは、このマーラちゃんと対峙した時、それを打ち消すことに躍起になってしまうんですが、打ち消そうとさせることもまた、このマーラちゃんの策略なんです。

あらゆる思考が出てきては打ち消そうとし、打ち消したと思ったら次の思考が現れ、、、。
と、延々と繰り返されてしまうんですよね。

そのうち、打ち消しても打ち消してもやってくる思考ちゃんに疲弊し、マーラちゃんの軍門に降ってしまうんです。

これは対マーラちゃんにおける作戦が間違っているんです。

そもそもこのマーラちゃんは、実際に僕らに手出しができません。
だから、幻想を見せてくるわけなんですが、この幻想を信じてしまうと負けなんです。

マーラちゃんは実はハリボテ

思考という機能自体はなくなりません。
なので、つい僕らは思考と一体化してしまうわけなんですが、実はこの思考には全く力がないということが見抜かれた時、一体化から解き放たれるんです。
つまり、思考とはなにか?
引き寄せてくる力の源泉はどうなっているのか?
このあたりが見抜かれてくるとき、今まで強大な力を持っているようにみえていたマーラちゃんが実はただのハリボテだったことに気づくんです。

その気づきの呼び水となってくれるのが、どんな思考が起こっても、ここにそのまんま居させてあげる。
ということなんですね〜。
ちょっと逆説的なんですけどね。

 

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