Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

無我=真我

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【はじめに】

ほい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

今に在ること。
ってね。
言葉としては変ですよね。

だって、今以外のどこか?なんて存在しないんですからねー。
だから、どこに行ったって、それは今なんです。

仮にタイムマシンが誕生したとしても。
そして、そのタイムマシンで過去や未来に行ったとしても、
行った先の過去や未来は「今」なんです。

ドラえもんみたいに、過去の自分にあったとしても、それは一つの対象であって、
対象は単なる思考の判断を通した幻想であり、どこへ行こうとも今いる場所は「今」以外の何物でもないんですよね〜。

過去や未来というのは「思考」がつくった幻想なんです。
そして、この幻想を僕らは「今」に在りながらみているんですよね。

僕らは今に在りながら、過去や未来の幻想を真実だと錯覚しているというわけです。

 

【過去や未来は「思考」の中にある】

だからねー。
今に在るにはどうしたら良いか?っていうと、もうすでに「今」にあるわけですから、
どうにもしようがありません。
ですが、幻想から離れれば、その錯覚は消えるんです。

いろんなメソッドっぽいものをここでも書いてますし、色んな所で言われていますが、そのほとんどは、幻想から離れる。つまりは、思考から離れるコツなんですよね。

観るというのもまた、思考から離れるコツなんです。

僕なんかは最近はすっかり老眼ですから、何かをみようとすると距離を取らなければみえません。
だからみようとすると距離ができるんですよね。

思考を観るというのも、これと似ていて、観ているとその対象から自動的に距離が取られるんです。

ただし、観ているその思考をあれこれと批判したり判断したりするなら、今度はその批判や判断の思考とべったりくっついてしまっていることになりますからね〜。

批判や判断を通さずに、ただ観る。
これがコツなんですよね。

思考というのは「今」に在ることはできません。
なぜなら、過去の経験からくる判断を通さないと思考は機能しないからですね。
そして、過去や未来というのはこの「思考」の中にしかないんです。

ま、思考に中も外もありませんので、思考の中という言葉もちょっと変ではあるんですけどね。

【今に在るということ】

思考を観るというのとちょっと似ていますが、ただ、なにも観ずに今に在ってみる。
という方法もあるっちゃあります。
瞑想もこの方法の一つです。

瞑想というと、何かしらの境地に達するための行為。
というような解釈をしている方もおられるかも知れませんが、瞑想は行為ではないんですね。
ただ、今に在ってみる。
それが瞑想なんです。

ここで大事なのは「ただ」というところです。

ただ在る。の「ただ」がキーなんです。

ただ在るってみると、思考を通した自分ではなく、「今」にある無限の全てに自分が溶け込んでいきます。
厳密に言うと自分が溶け込むのではなく、思考の中にある自分を参照しないことで消えていくということなんですが、感覚としては溶け込むような感覚を感じたりもするんですよね。

そして、あ、溶け込んでるんじゃないんだという気づきとともに全てが目覚めていくんです。

ただし、瞑想にはある種の境地というものもございまして、それがいわゆる神秘体験のような体験をもたらすこともあるんですよねー。
その場合はさっさとその体験から離れる。スルーするというのが結構大事になってくるんですが、自分が消えるのとその体験がやって来ることが一緒に起こったりして、この神秘体験こそが、悟りの境地なんだ!もしくは神と一体化した境地なんだ!
ってね。
そんな錯覚を感じてしまうこともあったりするんですけどねー。

禅でも「仏に会ったら、仏を殺せ」っていう教えがありますが、それです。

このあたりのことは、また別の機会に譲るとして、
そういう体験はさっさと捨ててしまったほうが良い!ということは頭の片隅に置いておいたほうが良いかも知れません。

【無我=真我】

自我ちゃんとは思考が作った自分像です。
僕らはこの自分像を通してあらゆるものを判断し、そして比較したりしております。
その比較があらゆる苦しみの錯覚を演出したりするわけです。
また、この自分像は依り代となる何かとくっつきます。
それが、身体であったり、心(思考と感情の感覚がセットになったもの)だったりするわけです。
そして、ここに防衛反応がくっつくことによって、依り代を守ろうとする衝動が起こったりするわけですね〜。
だから、自我ちゃんが手放される様は、自分の死であるような恐怖を感じる場合もあります。
また、自我ちゃんが消えたら、何も考えられなくなったり、意識が無くなったり、ちょっと呆けた感じになるんじゃないか?
みたいなね。
そんなイメージを持つ方もおられますがそうはなりません。
むしろ今まで以上にスッキリと思考は働きますし、意識はよりハッキリくっきりしてくるんです。

自我ちゃんが消えるというのも、そもそも自我なんて存在しなかったことの発見でもあるんですよね。
元々無いものですから、消えても問題はないんですよね。

そして、その時、
真我とは、まさにこの無我のことであることを知るんです。

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