Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分とは何者なの??

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさん集合写真は得意ですか?
へ?集合写真に得意も不得意もあるの?
って話なんですが、なんていうかな〜、集合写真でいい表情が出来ない。
そもそも写真が苦手っていうのはあると思うんですよね〜。

僕も写真が苦手なんですよ。
すごくキモい表情になっちゃうんですよね。
ま、こういうのって他人は全くそうは思ってないんでしょうけどね〜。

ちなみにそんな集合写真なんですが、
写真が配られたとき、みんなどうしますか?

やっぱり最初にチェックするのは自分の顔ですよね!
くわーって目を見開いて自分はちゃんと写ってるのか?
ってのを必死で確認したりしてね。

そう、集合写真って結局みんな自分の顔しか気にしてないということなので、
逆に言えば、私の写真うつりなんて誰も気にしていない。
ということでもありますね。

ま、それくらい人は皆、最大の関心事は自分である。
と言えるのかもしれません。

 

思考は自分ではない?の違和感

よく思考は自分ではないとか、自分は思考をコントロールしていないといったようなことを聞くと、
「へ?思考と自分は関係ないの?」
って混乱される方もおられるかと思います。
まーねぇ〜。
そんな混乱がおこる気持ちもよくわかるんです。

なぜなら思考の最大の関心事は「自分」であり、
思考のあらゆるストーリーは「自分」を中心に紡ぎ出されます。

つまり自分なしでは思考は動きませんのでね。
思考と自分とは切っても切り離せない関係として見えちゃうんですよね。

思考の自分はただの自我

ですが、ここでいう自分。つまり思考で思っている自分ってね。
自分じゃないんですよ。あえていうとこれは自我であって、
この自我というのは思考そのものなんですよね。

僕らは、この自我と自分をどこか同一視していたりするわけです。
では、ここで言われている自我と混同している「自分」とは何か?
と言いますとね。

言葉にするとややこしいんですが、
私感覚です。
この私感覚と自我を混同しているんですよね〜。

もうこれはねぇ。

ウサギとカメは同じものだ!と言っているのと同じくらい的外れなんです。

そして、この混同があるから、ぼくらは「自分」に執着してしまうんです。

私感覚と自我の混同

私感覚とは、なんぞや?と言いますとね。
それは、ただ在るもの。としか言いようがありません。

ただ在るもの。そしてそれは全てである。
自我との対比であえて「真我」と呼ばれたりもします。

ちなみに、この私感覚と言う言葉もちょっと的を外しておりまして、
この「私感覚」という捉え方は、思考目線でみた捉え方なんですよね。

そもそも「私」という概念自体が思考の中にしかない概念なんです。

僕らはねぇ。
生まれてきたときは「私」なんてものを知らないんです。
これは思考によってどこかの時点で捉えられた概念なんです。

ほら、僕らって、あれはヘリコプターだよ!と教わった時点で、
ヘリコプターが思考の中に存在しだすじゃないですか。

それ以前は、思考の中にはヘリコプターなんて存在してないんです。

それと同様に、「私」という概念を知った後にぼくらは思考の中に「私」というものを作るんですよね。

でね。
いわゆるただ在るもの。全て。
これは、ずっと「ココ」に在るんです。
何をしていても、何を思考していても、ココに在ります。

ただ、思考で捉えられるものではありません。
だから、「有る」ではなく「在る」と表現しているんですけどね。

個別に存在しているものじゃないんです。
そもそも個別に存在しているものなんて無いんですけどね。
個別に捉えられるようなものじゃないんですよね。

なので、この捉えられない私感覚と呼んでいるモノが思考と同一化した際に、
「自我」というものに置き換えられるって感じですかね〜。

だからね。
思考の中にいる「自分」とは何だろう?ってみてみると、
そんなものはどこにも無かったりするんです。

面白いですね。

 

 

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