Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ウソが嫌いな思考ちゃんとコレのお話

はじめに

はいよっ!
おはようございます。
タクさんです。

昔、ドラクエの開発秘話が描かれた漫画の中に、
開発者のプログラマーさんが、
「メタ発言のあるゲームは許せん!」
といったようなセリフがあったんですよ。

どういうことかというと、
ゲーム中に、
「そろそろゲームをやめて勉強したら?」
みたいなね。
そんなメッセージが入っているゲームがあって、
これはゲームの世界をぶち壊すようなものだから許せーん!
みたいなことなんです。

確かに、そんなセリフが入っちゃうとせっかくのゲームが台無しですもんね。
やる気を失っちゃいます。

ま、そんなこんなで、ドラクエはプレイヤーがゲームに没頭できるように、
グラフィックや音楽、システム面などを考え込まれて作られたというわけですね。

そういえば、今のパソコン操作では当たり前になっているウィンドウ方式。
フォルダを開けばその中にあるファイルがウィンドウ方式で表示されるってやつなんですが、この方式を初めてやったのはマッキントッシュだったと思います。
今で言うところのMacシリーズですね。

その後、同じ方式をマイクロソフトも導入して、OSの名前もMSDOSからウィンドウズに変えて、今では当たり前の方式になっているんですけどね。

でも、この方式はこれらのパソコンが発売されるもっと前にドラクエで採用されているんです。

そう考えると、ドラクエってやっぱり偉大ですよね。

 

空気が読めないメタ発言

まあ、そういったメタ発言は、
以前に流行った「空気が読めない」ってやつですよね。

鬼ごっこの最中に、鬼になった田中くんに対して、
「田中くんは鬼じゃないよ!田中くんは田中くんだよ!」
っていうのも、メタ発言なんですが、同時に「空気が読めない」発言でもあります。

この場合の空気は、一緒にフィクションを楽しもう!という空気となります。

同じく、思考のストーリーもフィクションですので、
このストーリーの世界をぶち壊すのにも、このメタ発言が役立つことがあります。

「ま、これはフィクションのストーリーだし」
「これはただの思考のイメージだし」
って感じですね。

これで、思考のストーリーがスーッと引いていったりもするんです。

思考ちゃんはウソが嫌い

この界隈ではよく聞く「私はいない」というのもまたメタ発言の一つですね。

ですが、僕らってゲームや映画とは比べ物にならないくらいものすごーく思考のストーリーにハマりまくってたりするんですよね。

そうなると、この程度のメタ発言くらいでは全然効かなかったりするんですよ。

そうなるとどうなるのか?というと、
「思考のストーリーがフィクションなのだとすると、本物のストーリーはどこにあるのか?」
と余計に探求を深めちゃったりするんです。

「私がいないのだったら、この私は何者なんだろうか?」
「身体の痛みは私しか感じていないのに、それでも私はいないのはおかしいんじゃないか?」

なんて考え込んじゃうのもまた、余計に思考のストーリーに入り込んでいるってことになりますよね。

探求もまた思考と同じです。
思考は常に答えを探し続ける働きでもありますから、探求は思考のことなんです。

思考ちゃんが求める答えは「真実」です。
メタ発言はフィクションであるということを表現しておりますのでね。

ウソが嫌いな思考ちゃんがこのメタ発言を聞くと
「では、真実はどこにあるんだ?」
ってなっちゃうんですよね。

これ、いわゆる一瞥体験や悟りの体験も同様で、
体験として「分離がない」を知ったときに、思考が混乱して目的を見失う。
みたいな副作用が起こることも珍しくありません。

これもまた、分離がないそのまんまの「コレ」を思考の材料として持ってくるから混乱しちゃうんです。
私という個別の何かは存在しないし、そもそも全ては思考のイメージだということを思考の材料に持ってきちゃうと、
「何を指針として持てば良いのかわからないし、いない私が何を目指すんだ?」
ってなことになるんです。

これも、思考ちゃんへのハマりが強いからスルッと思考のストーリーにハマっちゃうことで起こる混乱ですのでね。
ちょっと、それ以上の探求を追っかけるのではなく、ちょっとあれこれとした考え事は置いておいて、ゆったり川の流れや空の雲でも眺めていれば良いんです。

 

takuteto.hatenablog.com