Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

探求の終わりについて

はじめに

はぁーい。
どうもおはようございます。
お久しぶりぶりでございます!
タクさんです。

すいませんねぇ〜。
ちょっと風邪で更新があいちゃいまして。

今日から無事復活でございます。
どうぞよろしくおねがいします。

さてさて。
探求、探求って言ってますが、
この探求っていうのは何を探しておるのか?

といいますと、
やっぱり「真実」だったり「真理」の探求になるのかな〜?
って思うんですよね。

ホントの自分?
だったり、
ホントの何か?
だったりするんでしょうかね。

ぼくらはこういうホントを探求していたりするんですよね。

ホントとは、正解の道ってことになりますもんね〜。

だからこそ僕らはいわゆる真実というものを求めるわけなんですが、、、。

ちなみに、真理でも全体でもソレでもコレでも、
呼び方は何でもいいんですが、
これってね。
やらしいことに、探すと見つからないんですよね。
だって、全体がもうすでにソレですからね〜。

そして、わかることでもないっていうね。
だからわかろうとしても、これまた見つからないわけです。

ここが若干ややこしく感じている方も多いんじゃないかな〜って思います。

でもね。
コレを知ると、もう探求は終わるんですよね。
コレはもう明確に明らかなんです。

 

探すのでもなくわかるでもない

ただねぇ。
探すのでもなくわかるでもない。って言われちゃうと、
どうしたらいいのか?って思っちゃいますよね〜。

ま、探さずに、わからないままでいる。
ってことになるんですけどね。

そうしていると、徐々に霧が晴れていくかのように、

うほっ!わかるとか探すとか!そ~言うのってまじで的外れじゃん!
だってすでにもうコレなんだし!!!

ってな感じになっていくんですけどね。

でもそう聞けば、これまた、そういうのをいつまで待てばいいのよ。
って思っちゃったりもするかもしれません。

でもね。
これ、ちょっと逆に考えてみたらいいんですよ。

真理の探求っていうのを逆に考えてみるんです。

真理の探求の逆??

真理の探求を逆に考える??
どゆこと???

といいますとね。
そもそも真実とか真理ってなんぞや?といいますと、
簡単に言えば、嘘がない!ということになりますよね。

つまり真理の逆ってなにか?といいますと嘘ということになるじゃないですか。

じゃあ、この嘘はどこにあるのか?って話なんですよ。

そもそも、僕らを取り囲む全体に嘘が入り込むスキなんて無いですよねぇ。
手をパンッ!と叩いたら、パンと音がなる。
ここに嘘もへったくれも無いじゃないですか。
まさに真実そのものですよね。

座ってたら座っている感触があるでしょうし、肌には空気を感じるでしょうし、
なにか食べたら、その味を感じますよね。
これがもう真実そのものであり、そこに嘘はありません。

じゃあね。
どこに嘘が入り込んでいるのか?というと、
それが思考によって紡がれた言葉の中ってことになるんですよね。

この思考の中でしか嘘というものは発生し得ないんです。
(※ですので、パンと叩いたらパンと音がなるというのも、厳密には嘘ですよね。)

思考が探求しないようになるということでもないですよー

思考は単なるイメージであってそれ以上でもそれ以下でもありませんよね。
それは実体のないものです。

この実体のないものをあたかもあるかのように振る舞うのをやめる。

これだけなんです。
すると、嘘はぜーんぶ消え去って、真実だけが残るというわけですね!

探求してわかろうとすることって、結局の所、何かを思考のストーリーに置き換えようとすることなんですよね。
それをやめれば、全てが残る。というのは、こういうことなんです。

そしてこれは、思考が探求をしないようになるということじゃなく、思考って真実じゃなくて、あくまでも思考は思考だよね。
という、ただただ当たり前のことを改めて知るということ。
ということでもあるわけです。

ここが極まってくると、いわゆる重さっていうものから解放されるっていう寸法です。
僕らはなーんにも持っていないのに、持ってるていにすることで重さが演出されていたんです。
この「てい」が夢であり、この夢からの目覚めなんです。

 

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!