Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

僕らはなぜ生きているのか?

はじめに

はいどうもー。
子供の頃はやたらと伝記を読むのが好きだったタクさんです。
みなさん今日もお元気でしょうか?

ニュートンとかエジソンとかワシントンとかベートーベンとかモーツァルトとか、
はたまた、織田信長とか卑弥呼とか徳川家康、豊臣秀吉、鑑真、親鸞とかねー。

いろんな人の伝記を面白く読んだものです。
あれ、大人になって読んでも読み応えあったりしますよね。

ただ、そんな伝記なんですけどねー。

もしかしたら、本人が感じている人生ストーリーとは全く違うものだったりするんだろうなーって感じたりします。

そもそも、僕らって、周りの人の自分に対する感じ方と、自分自身の自己認識って全然違うものですからねー。
そして、それが違うからって別に嘆く必要もありません。

よく、
「誰も私のことなんてわかってくれないのよー!」
とかいって拗ねるシーンがドラマであったりしますが、
ま、そりゃそうですもんね。

そして面白いことに、
自分自身が自分のことを一番よく知っているというのもまた違うわけでして、
結局のところ、誰の認識であろうとそれなりのバイアスがかかってしまうんですよね。

だから違って当たり前だし、自分の中の私像も正しくもなければ間違っているわけでもない。ということなんです。

となると私って何やねん?ってなるわけですが、
それはやっぱり「イメージ」ということになっちゃうわけですねー。

 

・僕らはなぜ生きているのか?

さて、僕らはなぜ生きているのか?何のために生きているのか?
あらかじめ決められたブループリントなるものはあるのか?

なーんてことが気になったりする方もおられるかもしれません。

ですが、僕らって別に僕らが生きているわけではないんですよね。
生きているというのは、誰かがやっているわけではありません。

そもそも生きるというのに当事者はいないんですよね。全自動なんです。
だから生きるに関してはもうお任せしておけばいいんです。

お任せしておけば、新陳代謝も勝手に起きるし、髪の毛も勝手に伸びるし、心臓も勝手に動いてくれるんです。

ただ、僕らが「なぜ生きているのか?」「何のために生きているのか?」
なんてことを考える場合って、大体は人生ストーリーの話をしている場合が多いんじゃないかな?って思うんです。

どのような人生ストーリーが正解なのか?正しい道なのか?私にとって正解なのか?
みたいな感じですね。

ここについては、なんていうかオマケみたいなものですからね。
そんなに肩に力を入れなくてもいいんです。

・人生ストーリーはお気楽に

この人生ストーリーと生きているということがごっちゃになっちゃうと、そもそも自分ではコントロールしていないものまで責任を持たなきゃいけなくなってしまいます。

すると、思い通りにいかないということが出てくるわけです。
そして、思い通りにいかなきゃやばい!という思いもまた、ここから生じてきちゃうんですよねー。

でも、そもそも僕らがコントロールしてないものに責任を持つ必要はないですよね。
コントロールしてないものに責任を持つなんて、まるで天気について責任を持つようなものです。
でもそんな人いませんよね。
だれも天気について責任は持ってません。

「しまったー!今日は用事があったのに雨を降らせてしまったー!」
なんて言ってたら変ですもんね。

生きることについては、ちゃんと勝手にやってくれますので僕らはそれを味わうだけです。

そして、人生ストーリーというオマケ部分は、まあお気楽に遊べばいいんです。
この遊びに疲れてきたなら、一旦置いておいて、ただただ、生きるを味わえばいいんです。
そうすると生の躍動が舞い戻ってきてくれます。

この躍動もまた存分に感じ取って味わっていればいいんです。

そのうち面白そうな人生ストーリーを思いついたなら、そのストーリーをお気楽に遊べばいいんです。

 

 

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