Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

探求仲間内で始まりがちなゲーム

はじめに

はいどうもー!
おはようございます。
タクさんです。

仏教でね、三宝という教えがあるんです。

三宝とは仏法僧という三つの宝を大切にしましょうっていう教えなんですけどね。

仏とは仏陀(ブッダ)であり悟りを開いた人といった意味ですね。
ま、お釈迦さんを指す場合もありますが、これは分かります。
そもそも、お釈迦さんの教えを学ぶこと、これは悟りを学ぶことですからね〜。
大切にしようっ!ってなりますよね。

法とは、この世の理(ことわり)みたいなものですね。
思考によって作られるストーリー上のルール(カルマ)ではなく、
人知を超えた法則みたいな感じです。
これを(ダルマ)と呼んだりもします。

これも大切ですよね。
わかります。
得ようとするほど、不足感が色濃くなる。なんてのも法則ですもんね。

で、最後のひとつが僧です。

これは、いわゆる悟りを学ぶ仲間。いわゆる教団の仲間を大切にしましょうね。

ってなことが書いてあったりするんですけどね。

ここだけがどうも僕はあまり納得ができなかったんですよね〜。

だって、悟りを目指す人「だけを」大切にするようにも捉えられるじゃないですか。
これって、変な分断を自分の中で作っちゃいますもんねぇ?

だから、それは違うんじゃないかなぁ?って思ってたんですが、

まあでも、組織というものが出来ると組織内の争いって起こるものなんですが、
そんなことになったら探求なんて言ってられなくなりますからね〜。

だからそういうルールも必要なのか〜。でもそれと悟りは関係ないもんなぁ〜、とも思ったりしつつモヤってたんですが、

ただ、教えとして
「あなたは一人で生きているわけではありません。仲間あってのあなたなんです」
といったような言葉もあるんですよね。

そうなると、この仲間というのは共に悟りを目指す探求者だけじゃなく、共にいま生きているありとあらゆる全て。という意味にも取れるなぁと思い、おそらくこの「全てはひとつ」であるということをちゃんと知っておくということが大切だよ!ということなんだろうと解釈するとスッキリするのでそういうことにしておこうかなと思います。
知らんけど。

 

・何かしらを越えた先に悟りや非二元があるという幻想

まあ、だからといって別に探求仲間を否定するものじゃないんですけどね。
結構良いものですもんね〜、同じものを求める仲間って。

それはとてもいいと思うんですよ。
ただ、ありがちなのが、探求仲間が集まるとなぜか自分クリアリング合戦みたいなことになりがち。ってな側面もあると思うんですよね〜。

どんどん自分を癒やしていって、穏やかになっていく。
その穏やかさが強い人ほど、何かしらのゴールに近い??といったようなな考え方?ルール?みたいなものもあったりしてね。

さらには、身体にも気を使い始めて、オーガニックなものを食べ粗食になっていったりして。

それもとっても良いと思うんですよ!

でもそれといわゆる「悟り」だとか「非二元」は関係ないんですよね〜。

・探求仲間内で始まりがちなゲーム

自分の状態をより良くするというのって、別にそれをしたって、それは自分が決めた良いという状態を保とうとするゲームが始まるというだけですからね〜。

そしてゲームが始まっちゃうと、「うまく行く時」と「うまく行かない時」が起こるんです。

そうやって、その結果を一喜一憂するのがゲームの遊び方ですのでね~。

ただ、そのゲームのゴールに何かが待っているわけじゃありません。
ゴールに辿り着いて、そのゲームをやめたなら、単にそのゲームが終わるだけです。
そこに何かが残るというわけでもありません。

人って集まると何かしらの「より良くなろうゲーム」が始まりがちなんです。
それは一種の習性みたいなものなんだと思います。

その習性が悪いというわけじゃないんですが、別にそれが正解というわけでもないよ〜。
ってことなんです。

どこかの道の先に悟りや非二元の極意が落ちているわけじゃないですからね〜。
また嫌な思いや一切合切の思考を消すということでもなく、単に思考って思考だよね!という当たり前のことを知ることですのでね〜。

状態は関係ないんです。

 

 

 

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