Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

善き人という幻想と目覚めの呼水

はじめに

はいどうもー!
おはようございます。
タクさんです。

さて、やっぱり僕らって善き人、つまるところ善人でありたいって思いますよねー。
もちろん中には、ダークヒーローに憧れる方もおられるかもしれませんが、ダークヒーローもまたある種の善き人ですもんね。

そして、善き人であるからには立派でありたいということにも通じることがあり、僕らは立派であろうとするわけです。

この、善き人になろうとすること。
ここには何の問題もないですよね。だって善き人になることはよいことですもんねぇ。

ですが、もしかしたら、この思いが僕らが真実から目を背ける、さらには真実に対して自分を閉じてしまっている原因になっているかもしれないよ!

ってなことをテーマに書いてみたいと思います。

 

・失われた純真さという幻想

思うに僕らってそもそも善き人なんだと思うんですよ。
だって、赤ん坊って純真無垢じゃないですか。
赤ん坊の中に悪人っていませんもんね。

人を騙して貶めてやろう!とか、
「お前が間違ってるんだー!私こそが正義だー!」と叫んでいる赤ん坊はみたことがありません(笑)。

僕らもまた純真無垢な存在であったわけです。

だからこそ、僕らは元々の純真さと違う自分であると感じた時に何かしらの違和感を感じているのかもしれませんね。

そして離れてしまった元々の境地に戻りたいと思っているのかもしれません。

ですが、この望みを持つがゆえに僕らは心の奥底に「立派ではない自分」「ダメな自分」を封印してしまうんです。

そんな自分を隠し通すことで善き人になろうとしちゃうことで、真実から目を背ける。真実に対して閉じてしまうことになっちゃうんです。

・真実との対峙

真実と対峙するには、
真実に目を向けなきゃなりませんし、そのためには真実に対して自分を開け放つことが必要です。
そこで最大の障害となるのは、心の奥底にかくされている「ダメな自分」と対峙しなきゃならないことなんです。

誰だって嫌ですもんねぇ。
本当はダメな自分と対峙しなきゃいけないなんてね。
だって僕らは立派で善き人でありたいんですもんねー。

でも、この「ダメな自分」と対峙し、そこに自分を開け放つことで真実が目覚めるんです。

自分を開け放つとは、言い換えると受け入れるということです。

これは、「ダメな自分」が真実であるということじゃないですよ。
「ダメな自分」を隠すことによって、真実を隠してしまっているということなんです。

・夢から覚める呼び水

「ダメな自分」を隠すということは、「ダメな自分」がいることを認めているということになるじゃないですか。
それが、真実を隠してしまうということなんですよねー。

「ダメな自分」を受け入れてあげると、この「ダメな自分」の「ダメ」が錯覚だったことが顕になるんです。
そして、奥底に隠されていたさまざまな自分が「許されざる者」ではなく、元々許されていた存在であり、それどころか祝福された愛らしい自分であったことが顕になるんです。

何かを良いや悪い、良いとかダメと判断していたその判断材料こそが錯覚だったことが明かされるんです。

良いや悪いは元々なかった解釈にすぎなかったわけなんですが、ありとあらゆる解釈もまた、この良いと悪いの分離によって引き起こされているんです。

心の奥に隠された、最低最悪な自分との邂逅が、幻想を解き放ってくれるんです。

だから、嫌な自分、ダメな自分こそ愛でてあげて居場所を与えてあげればいいんです。
それが夢から覚める呼び水になってくれますよ!

 

 

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