はじめに
ふぁーい。
どうもおはようございやす。
タクさんです。
ちょっと前の話になるんですけどね。
馴染みのお店で飲みながらご飯を食べてたんですよ。
小さい店なんですけどね。
すると、店主の女性がちょっとピリピリしてるんですよね。
で、どうしたのか聞いたところ、
「◯◯さんがいらっしゃってるので、ちょっと注文待ってね」
って言われましてねぇ。
なんでも、有名な芸能人の人がお店に来てたんですよ。
この方も常連さんのようなんですが、なんかねぇ、その人の注文を優先してるって感じだったんですよね〜。
いや、良いんですよ別に自分の注文が遅れるのはね。
でも、なんであのおっさんにそれほどピリついて気を使う必要があるのか?
とちょっと釈然としなかったんですよね〜。
ま、狭いお店なので、その芸能人の方とも色々とお話することができて、フライデーに書かれたこととかを初対面の僕にも面白おかしく話してくれたり、どこぞのグッズを「良かったらあげるよ!」ということでくださったりしてとても良い方だったんですけどね。
ま、そんなわけで気を使うといえば、僕らは常に思考ちゃんの判断に気を使っていたりするんですが、そんなことをテーマに今日は書いてみたいと思います。
・思考は判断材料を求めて探求する
僕らってね。
子供の頃から、「こんなことをしたら大変なことになる!」ってなことを叩き込まれてきたじゃないですか。
その過程で、あらゆることには原因があり、それに伴って結果があるということも叩き込まれるわけです。
こんなことをしたらいい大人になれないよ!
ってなこともずっと言われ続けてたりしますからねぇ〜。
もう何をするにも気になってくるんですよ。
「これで正解なんだろうか?」
「この決断は間違っていないだろうか?」
ってなことを常に気にし続けるようになっちゃったりするんですよね〜。
だから常に思考にとって正しいと思われるような判断材料を探し求めるんです。
また、よくわからない判断材料の場合は、どういった理由でこの判断材料は正しいと言えるのか?ってことも気になったりするんですよね〜。
ですのでね。
つじつまの合わないことは思考ちゃんは受け入れがたいんです。
・思考から自由になるということ
ま、そんなこんなでグリングリンと回りだす思考ちゃんにフォーカスしてますとね。
いつのまにか思考の中に入り込んだような錯覚に陥るんですよね〜。
ほら、映画だってそうじゃないですか。
面白い映画だったらものの数分で映画のストーリーに入り込みますよね。
思考のストーリーは、自身にとって興味のあることをずっと呟いてきますから、
そりゃー入り込んじゃうわけです。
もちろん、普通に歩いている時や、風呂に入ってぷはーっ!ってなってる時、
ギャハハ〜!って笑ってるときや、スヤスヤ〜って寝てるときなんかは思考から離れてるんですけどね。
でもまたすぐに、「あの映画の続きはどないなったんや!」ってなもんですぐに戻ってしまうんですよね〜。
ここでね。
ぐっと我慢して、思考から距離を置く。
つまり、思考を置いておきますとね。
「あ!誰も何もしていない」
「そもそも、主体者なんて存在しない」
ってなことを知るんです。
もちろん、思考ちゃんは逆らってきますよ!
「思考を置いておくってことは誰が置くんじゃ!主体者がいるってことじゃないかー!」
ってね。
ドヤ顔で騒いでくることでしょう。
でもこれもね。思考の中だけでつじつまが合わない!って騒いでるだけなんですよ。
つじつまなんてものを合わせなきゃならない!つじつまが合わないものは間違っている!
というルールもまた、思考の中だけのルールなんです。
映画のストーリーはフィクションです。だから映画の中の世界のルールもまたフィクションなわけですが、これは思考も同様で、思考の中のルールは思考の中だけにしか存在しないルールなんです。
そして、そもそもだれも何もしていない。
目の前の一切合切の出来事に、だれも関与していないし、だれもコントロールしていない。
ああ、なるほど、、、。
コントロールしているという錯覚が神を生み出したのか。
そして、神の御業であるということにしていたのか。
でも、そもそも誰もコントロールしていなかったとは、、、。
そうかー!そういうことなのかー!
ってなるんです。
そうなりますとね。
もう、思考の顔色を伺わなくていいし、思考に気を使わなくても良かったんだ!
ということを心底知ることになるんですよね〜。
それが思考から自由になるということなんです。
つまりね。思考を止めるとか、思考が起こらなくなるってことじゃないんですよ。
今まで通りふつーにあれこれと思考は起こるんです。
でもね。それで良いんです。そもそも思考は誰も何も縛ってないんですよね。
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