Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

主体という感覚は幻想なのか?

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はじめに

みなさんはカニって好きですか?
なんかカニって食べてると無口になったりしますよねー。

そんなカニなんですけどね。

タラバガニっているじゃないですか。
身がめっちゃ美味しいやつ。

あのタラバガニってね。
実はカニじゃないって知ってました??

タラバガニってね。カニというよりはヤドカリの仲間なんだそうです。
ま、足の本数や作りがカニとはちょっと違うんですよね。
しかも横歩きだけじゃなく縦歩きもできるらしいですし。

ま、ヤドカリとカニは随分近いような気もしますけどね〜。

ちなみに、エビが進化してヤドカリに。
そしてヤドカリが進化してカニになってるんだそうです。

あ、なんかカニが食べたくなってきた。

というわけで、おはようございます。
カニ大好き!なタクさんです。

みなさんは、どのようなカニライフをお過ごしでしょうか??

さてさて、今日は主体という感覚について書いてみたいと思います。

 

主体という感覚は幻想なのか?

僕らは普段自分というフィルターを通してモノを見ますよね。
だから、当然そこには自分という感覚があるわけです。

どれだけ、
「私はいない」
と言われようとも、
感覚としてもう「私」は取り外せないものとして在ると思うんですよ。

これは、「私」と呼んでもいいし、「主体」と呼んでも良いと思います。

これってね。
在るじゃないですか。

いろんな先生が、
「主体という感覚は幻想ですよ〜!」
とか言っちゃったりしてるけど、

「ええ?やっぱりこの感覚は在るんですけど??」

ってなりますよね。

僕らが、つい混乱してしまうのは、この「私」という感覚。
これがないと言われても感覚として在るからには、これは否定できない!
ということなんだと思います。

そして、それは正しいんですよね。

この感覚。
それは、僕らが「私」と呼んでいたり、「主体」と呼んでいるものですが、
この感覚自体はちゃんとあるんですよ。
だから、安心してください。
あなたは、何も間違ってはいないんです。

私・主体という解釈から生まれるストーリー

ただ、この感覚を僕らは「私」と呼んだり、「主体」と呼んだ時点で、
ちょっとここで、解釈が加わってしまうんですよね。

この感覚が「私」なのだとしたら、向かいにいるあの人も私と同じ「私」を持っているんだ。
みたいな解釈です。

この感覚を主体としたなら、客体も同時に作り出されてしまうわけです。

これはね。
幻想というか、あくまでも思考の解釈に過ぎないわけです。

そして、この「私」という解釈を元に、思考はあらゆるストーリーを展開しだすわけです。

この解釈が、真実ではなく、あくまでも解釈でありストーリーであり、幻想だよね。
ということなんですね〜。

だから、それ以前の、名もない感覚というものは、ちゃんと在るんです。
これこそが、私は在るであり、この在るになんの解釈も加えなければ、
もう在るだけが在る。そこに分離はない。
ということになります。

「え?じゃあ、やっぱり人の数だけ「在る」があることにならない?」
ってね。
きっと思考はそう言ってきます。

それもまた、一つの解釈を作ろうとする思考の働きなんです。
どれだけ、納得の行くような解釈ができたとしても、やっぱりそれは幻想なんですね。

思考は真実を見分けようと解釈をしようとするわけですから、思考にとって幻想と言われると、
「では真実はどっちだ??」
ってなるわけですが、

コレとアレという選択肢があるとすれば、
それを両方融合させたところに真実は在るというわけでして、
分離させないと解釈できない思考には、この真実を解釈することは出来ないというわけなんです。

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