Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考はやって来るものである

はじめに

にょほほ。
どうもおはようございます。
タクさんです。

一昔前は、その人がどんな人なのか?というのを知る一つの尺度として、
その人の部屋にある本棚をみてみましょう。

なんてのがあったりしたんですがね。

今は、もう本棚って少なくなってきているのかもしれませんね〜。
僕も本はもうすべてキンドルで読んでいるので、
ものすごくたくさんあった本は、だいたい処分してしまいました。

そういえば、10年ほど前はたくさんある本を全て電子化しようとして、
本を断裁する断裁機と紙をササッとスキャンしてくれる機械まで買って、
せっせと本を電子化したりしたんですがねぇ。

使う端末もコロコロと変わってしまうこともあって、
当時電子化したデータは今やどこにあるのか?さっぱりわからなくなっております。

まーでも、読みたい本があったらまた買えばいいか。
ってな感じでいるんですけどね〜。

というわけで、僕の部屋にも本棚はありません。

ですが、今だと、
Youtubeやインスタの中を見られたら、
だいたいその人の人となりはわかってしまうのかもしれませんね〜。

恥ずかしいので、あまりみられたくはないものですね。
ちなみに、僕のインスタはほとんど金魚関連で占められております。

さて、SNSやYoutube。
さらには、本やテレビなど、あらゆるメディアを通して、
それこそ、ありとあらゆるコンテンツがあったりするわけですが、
そんなコンテンツの中、自分がどんなコンテンツが好きになるのか?
って自分で決めているようにみえて自分では決めていないんですよね。

これは、イチゴが好きになることやチョコが好きになることを自分で決めていないのと一緒なんです。

この「自分では決めていない」ということが発見できますと、いわゆる思考に巻き込まれるということも起こりにくくなるんです。

 

思考は思考。これが第一歩。

ま、そんな思考なんですが、実は普段はこれが思考だ!ということさえ中々気づいていなかったりするんです。

そうなると思考のストーリーがそのまま真実のことであると思ってしまいますのでね。
このストーリーの中でどう立ち回れば良いのか?ということばかりが気になってしまうんですよねー。

ですがこれがただのイメージであり、思考はあくまで思考であるってことに気づき始めてくると、
あー、あれも思考かー。
これも思考かー。
ってな具合に、思考は思考であるっていうね。
言葉にすると至極当たり前のことに気づいてくるんです。

思考はやって来るものである。

ですが、ここでまた次の勘違いが起こったりするんですよね。

それが、
「どれもこれもが思考なんだったら、良い思考だけ選べば良いんだー!」
ってやつです。

ですが、これもまた大体のところは上手くいかなかったりするんです。

なぜ、「良い思考を選べば良い!」と思ったのかといえば、
自分が考えることは、自分で決めているし自分で選んでいる。
と思っているからなんです。

ですがこれもまたある種の思い込みであり、
この思い込みもまた幻想なんです。

考えって自分でやっているようにみえて自分でやってないんです。

考えっていうのは、自分でやってるんじゃなくて、やって来るものなんですよねー。

そしてやってきた考えが起こった後は、
「私が◯◯を考えた」
というストーリーに変換されているんです。

だから考えは自分がやっていると思い込んでいるわけなんですが、
この錯覚があるうちは、やけに思考に巻き込まれつつ、
巻き込まれた後に、これも思考かー。と気づいたり、
では、答えはどこにあるんだろう?とまた思考に巻き込まれたりってね。

そんな繰り返しが起こったりするんですよね〜。

「思考もまた、やって来るものである。」
このことが明らかになってくると、そもそも僕らは思考から自由だったし、
思考は誰も何も縛ってはいないということも明らかになるんです。

 

 

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