【はじめに】
はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。
よくね。
もうタクさんは思考に巻き込まれたりしないの?
やっぱりまだ巻き込まれるの?
的なね。
そういう質問をいただくわけですが、
ぶっちゃけね。
思考って別に自分を巻き込んでくるわけじゃないんですよね。
そのようにみえているだけなんです。
そもそも思考に何かを巻き込んだりするという力はないんです。
だから、今まで通り思考は湧き起こるし、
あー、どおしよぉ〜。
イチゴ味にするか、チョコ味にするか、、、。
ってね。
迷いますし、
あー、アイツにあんな事言われた。
くやじぃ〜!ってな思いは起こるんですけどね。
それって、別にそれでいいんですよね。
甘さや旨味が味わい深いのはもちろん、
酸っぱさや苦味もまた味わい深いんです。
【思考が自分を巻き込んでくるという錯覚】
思考が自分を巻き込んでくるっていう錯覚は、
思考が自分であるという錯覚によって起こってるわけです。
また、思考が自分であると同時に、その思考を自分がコントロールしているという錯覚も同時に持っていて、コントロール不能な思考に対して自分の不甲斐なさを感じるっていうね。
そういう錯覚も起こってたりして、
どんどんと複雑怪奇になってたりするんですけどね。
それもそもそも、思考は自分であるという錯覚から巻き起こる副産物だったりするんです。
そして、この錯覚の根強さが、いわゆる執着といわれているものだったりするわけです。
【錯覚に対する見抜き】
執着を手放すというのは、この錯覚にたいする見抜きのようなものなんです。
ものすごく強い、マジックテープのようなものなんです。
新品で買ったばっかりの強力なマジックテープって最初は剥がすのが難しかったりするじゃないですか。
思考は自分であるという錯覚も、それと似ていて、思考を置いておくというのも最初はものすごく難しいんです。
だって、思考は自分だと強く信じ込んでいるので、
思考を置いておくなんてとんでもない。
それは自分を無防備にするということじゃないか。
って思っちゃうんですよね。
だから、思考を置いておくをやるわけなんですが、
変な話、思考って置いたり置かなかったりっていうようなものじゃなかったりもするわけでしてね。
ただ、起こってるだけですからね。
【自分は何かより良くなったという錯覚】
何かに気づいて、自分は前と変わったのだろうか?
みたいなことを確かめたくなるというのもまた、典型的な思考のパターンであり、
この確かめたくなるというのもまた、思考は自分であるという錯覚から出てくる思いなんですよねー。
だから、せっかく思考を置いておけたとしても、
「あ!思考って置いておけるんだ!自分はいないんだ!」
って気づいたとしても、
自分がいないことに気づいた自分は、前よりもより良くなったんじゃないかな?
って確かめたくなる。なんてことはよく起こります。
これは、硬いマジックテープも、一回剥がすと、確かに剥がしやすくはなるんだけど、まだまだくっつく力は残ってるのと似ていてね。
思考=自分という錯覚もまだまだ残っていたりするからなんですよね。
では、このくっつく力がなくなるとどうなるのか?
って話なんですが、どうにもならないんですよね。
そもそもくっついてるわけですらない。
という別の話になったりするわけです。
結局、どこまでいっても、これって思考の中で論理的に説明されてスッキリはさせてくれないんです。
なぜなら、分離がないからということになるわけですが、感覚的には完全にスッキリします。
これもまた、分離がないからなんですけどねー。
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