Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分像はあくまでも「像」である

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

この間、たまたまテレビでやっていた高校野球をみてたんですけどね〜。
いやー、選手も応援する子たちも若さが弾けておりました!

いいですね~!
青春ですね〜!

って感じだったんですけど、
ふと不思議に思ったんです。

高校野球って、小学生の頃は夏休みにテレビで散々みてたんですが、
その時からすると高校生ってまるでもうオッサン!って感じがして、
監督のおじさんと選手も同じような大人としてみてたんですよね。

ま、小学生からみたらそりゃーそんなもんなんですが、
同じものをみてるのに、その時の自分によってみえ方が変わるっていうのは、
ちょっと面白いですね。

結局、この世界は自分を通してみた自分の反映みたいなもので、
この自分っていうのもまた、勝手に作った自分像という幻想なんですよね〜。

 

僕らはこの世界を自分像というレンズを通してみている

ま、いうなれば僕らはこの世界を自分像というレンズを通してみているって感じですね〜。
そして、写ってくるものを時にこの自分像と比較をすることによって、物語のストーリーが思考によって紡がれるというわけですね〜。

ただ、大事なのは、このレンズは「自分像」であって「自分」ではないということです。
この「自分像」というのもまた、思考のイメージで作られた「像」であって、真実ではないということなんですよね。

そして僕らはこの自分像を自分だと思いこんでいるんです。

またこの自分像はねぇ。思考で作られているということもあって、結構過小評価されていたりするんですよね〜。
なぜなら、思考ちゃんは良いことよりも悪いことを優先するクセがありますからね。
なので、よく自分の良いところは自分ではあまりわかっていない。
なんてこともよくあったりしますよね。

自分像の過小評価

また、この過小評価のクセは表向きの過大評価に繋がっていたりもします。

僕らは弱い自分、嫌な自分というのを覆い隠すために、幕で覆ってしまったりするわけですが、この幕に当たる部分で、
「自分はすごいんだ!」
「自分は偉いんだ!」
といったような幕になってしまっている場合もあるわけですね〜。

ほら、やけに自慢話が多い人とか、
やけに威張ったりする人って、
その心の奥に自信の無さが見え隠れしたりしちゃうじゃないですか。

これもまた、間違った「自分像」によって生じた
弱い自分が見え隠れしちゃってるということなんです。

自分像は比較にさらされ続けて疲弊してしまう

また僕らは、大人になるにつれて、ありとあらゆる比較の概念を掴み取っていきます。
そして、そうやって手に入れた比較の概念によってつねに「自分像」は比較にさらされ続けてしまうんです。

ちょっと思い出してみてほしいんですが、
あまり比較の概念をたくさん掴み取っていない子供の頃は、
どんな大人をみても、
おっちゃんとおばちゃん。
って感じでしたよねぇ。

そのおっちゃんが、いくら大金持ちであったとしても、
そのおばちゃんが、有名人と言われている人だったとしても、
全く気にならなかったりしてね。

そのうち、金持ちは偉い!有名人は凄い!みたいな概念。
これは架空の概念なんですが、そういった概念をを掴み取るに従って、
みえ方が変わってくるわけです。

そして、この概念は自分像と比較されてしまうことによって、
「自分はあの人と比べて貧乏だ。。。むなしい。。。」
みたいなね。
そんな感じで自分像が比較の概念にさらされてしまうんです。

さらされ続けた自分像は、まるで野外に放置されたプラスチックがぼろぼろになってしまうかのように、傷ついてしまったりもするわけです。

また逆に、傷ついた自分像について、自分でそれを否定して覆い隠してしまったりもするわけですね〜。

自分像はあくまでも「像」である。

僕はよく自分を愛でてあげてくださいね〜って言ったりしてるんですけどね。
それは、このいわれもない比較の概念にさらされ続けた自分像をまずは癒やしてあげましょう。
ということでもあるんです。

悟りや非二元は、足りない自分を埋めるためのものではなく、
そもそも足りないというのは、比較の概念という幻想によって生じたものだよ〜。
って話ですのでね。

傷ついた自分像を埋めるため、足りない自分を埋めようとして探求をしているのであれば、その探求途中で手に入れた比較の概念によって余計に自分像を傷つける事になってしまうんです。

例えば、
「まだ私は悟りには程遠い」「非二元を理解できないのは私になにかが足りないからだ」
みたいな思いみたいなものです。

そういった幻想はまさに比較の概念によって作られる幻想なんですよね〜。

もともと全ては満ち足りていて、「私」に良いも悪いも無いんです。
そしてその「私」もまた思考の幻想によって作られた「自分像」に過ぎず、
この「自分像」は本当の「自分」ではなく、あくまで「像」なんです。

銅像や石像のような人の形をした像は、あくまで「像」であり人ではありませんよね。
それと同じなんです。

 

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