Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「今」への目覚め

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

心や体に関する病気って沢山ありますよねー。
そんな病気の原因はいろいろあるんですが、
そんな病気の元となる大きな一因として、
「自分嫌い」というものがあると思うんですよ。

特に心の病気やうつの大きな要因として「自分嫌い」があると思うんですよねー。

そもそもね。
僕ら人間って動物の一種じゃないですか。

そんな多種多様な動物の中で、自分嫌いになる動物なんて人間以外におらんと思うんですよ。
人間だけがなぜか、どこかのタイミングで
「自分はダメだ。」
「自分は足りない。」
という思いを持ち込み、その不足感で苦悩するんです。

生まれつきあるんじゃないんですよ。
どこかで外から持ち込むんです。そして真実だと錯誤するんです。

その苦悩が心や体の病気に発展してたりするんですよねー。

これは、まさしく思考のバグみたいなものだと思うんです。

思考という機能はとても便利なんですが、
比較という概念が、優劣という概念をうみ、価値という概念を生じさせ、
この概念に「自分」という概念を当てはめて、自分は足りないという幻想を生じさせるんですよね。

そもそも、あらゆる概念や観念に優劣はありません。
価値というのは、幻想であり、架空のルールの中にしか存在しない概念なんです。

また、本来のあなたは、思考の中で思っている「自分」ではありません。
思考にくっついてくる「私」もまた、架空の概念なんですよね。

この「私」を比較という概念にさらし、「自分は足りない」という幻想を作り上げるんですよね。

 

べきという幻想

この自分嫌い、「自分は足りない」という錯覚は何によって引き起こされるのか?
といいますと、
それは、
「〜であるべきだ」
「〜でなければならない」
という思いから来ているんですよね〜。

これもたんなる観念にすぎません。
こういう観念って、生まれつき持っていたものじゃなくて、
外からいつしか持ち込んだ観念なんです。

その観念に、自分が乗っ取られちゃってるんですよね〜。

外への対処でキリキリ舞い

僕らはいつしかそうやって、いろんな観念を外から持ち込んできたわけですが、
そうやって観念を持ち込めば持ち込むほど、この観念に振り回されてキリキリ舞いになってしまっているんです。

内なる自分を忘れて、外への対処で目いっぱいになっちゃうんですよね。

男として、女として、社長として、会社員として、
社会人として、夫として、妻として、親として、
「こうあるべき」

という観念は、
常に人にどう見られているのかが気になるようになり、
思い通りの自分でいられないことに苦しみ始めるんです。

これもね。
本来の内なる自分を置いてけぼりにして、
外への対処ばかりを優先するようになったからなんです。

子供の頃はね〜。
きっと今よりももっと内なる自分から出てくる楽しみを遊んでいたはずなんですけどね。
その内に外からやってきたゲームに侵食されてしまい、
このゲームを真実だと錯誤することにより、「自分は足りない」という幻想を作り上げてしまい、自分嫌いと「〜べき」に縛られてしまったんです。

「今」の目覚め

一切の「〜べき」は幻想です。
そして、「自分」にそもそも「足りている」「足りていない」なんて観念は当てはめられるものじゃないんです。

外ではなく内に目を向けるんです。
それは、押し付けられた価値観を自分に当てはめないということです。
思考の観念を自分に当てはめないということでもあります。

ややこしいことに「私」や「自分」というものでさえ思考の観念なんです。

内に目を向け、「今」を味わうんです。
そもそも、この世界には「今」しかありませんからねー。

あらゆる価値観から自由になった時、「今」が目覚めるんです。

 

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