はじめに
はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。
僕ら人間は、他の動物と違いまさに万物の霊長である!
なんてね。
自画自賛しているわけですが、僕ら人類が誕生したのはわずか20万年前。
生物の誕生が20億年前くらいだとされていますから、生物の歴史からすると人類の誕生なんてほんの最近のことに過ぎないんですよね〜。
にもかかわらず、僕ら人間だけが、まさに動物たちの頂点に君臨するってね。
自分たちだけでそう思ってるのって、ちょっとおマヌケな気もしますよね。
さて、そんな僕ら人類。
そんな人類は動物たちと決定的に違う要素ってなんでしょうかねぇ?
「言葉を使えるというところが違う!」
という意見もありそうですが、動物たちの中にも言葉を使う動物たちはたくさんいます。
だから、人間だけが言葉を使っているわけではありませんので、違います。
はたまた、
「人類は火を使う!」
という意見もありそうですねー。火の発明は人類最大の発明だ!なんて説もあるくらいですからねぇ。
でも、じつは火を使う動物は他にもいるんですよ。ちゃんと火を使って獲物を追い詰めたりするんです。
だから、火も人類だけが使えるというわけではありません。
となると、何が違うんでしょうねぇ?
これね。
僕が思うに、服を着ているところじゃないか?って思ったりするんですよ。
たしかに、他の動物で服を着る習性を持つ動物って見当たりませんもんねぇ。
アダムとイブが楽園から追放されたというお話も、
たしか、禁断の果実を食べたことで、急にものすごーく裸でいることが恥ずかしくなってきたんですもんね。
そして、葉っぱで服を作って着ていたところ、神様に禁断の果実を食べたことがバレて楽園から追放されちゃった。
というお話ですもんね。
なんか、リンゴみたいなものを食べた途端、急に何故か恥ずかしくなる。
ってねぇ。
ちょっとコントっぽくて面白いですよね。
人の目お化けのせいで幸せを見逃してしまっている
さて、この恥ずかしくなるという感覚。
これってね。
言い換えると、人の目が気になるということですよね。
アダムとイブが楽園を追放されたのも、言い換えると人の目というある種の幻想を持ってしまったために、楽園を追放されたという仮説が成り立つのかもしれません。
この人の目という幻想はね。ある種のお化けのようなものかもしれませんね。
まさに「人の目お化け」です。
僕らは、この人の目お化けのせいで、幸せを見逃してしまうようになったのかもしれません。
人の目というのは、言い換えると比較ですよね。
自分と誰かを比較するという概念があってこそ、人の目という幻想が生まれてきます。
そして、この比較という幻想。
これが僕らから幸せを奪っている元凶なのかもしれません。
この幻想に惑わされるから、僕らは幸せを見失ってしまっているんです。
人の目お化けに化かされていませんか?
僕らはこの人の目お化けに化かされている。
この人の目という幻想のせいで苦しめられているんです。
人の悩みのトップ3にはかならず人間関係なんてものが入ってきますもんね。
そして、この人の目という幻想があるせいで、幸せという定義も、人の目からみて幸せかどうか?という偽の定義も出来上がっちゃったりしてね。
そのせいかSNSでは、豊かさやすごい料理、素敵な場所や仲間みたいなものを競い合うような界隈もあったりしてね〜。
それをみて、「自分は幸せじゃないのかもしれない」という錯覚に陥ったりもして、変に苦しんだりするのも、人の目お化けに化かされているからなのかもしれません。
そもそも人の目お化けには比較という概念が入っておりますので、人の目からみた幸せ、人にチヤホヤされるという偽の幸せを勝ち取れたとしても、それは所詮偽物ですので、今度はそれを守らなきゃいけないという苦悩が湧いてくるんです。
幸せになったはずなのに、なんだかツラいなぁ。なんてことにもなりかねないんです。
この人の目お化けに化かされている限り、常に僕らは比較にさらされ続けるわけです。
楽園を取り戻そう!
そんな人の目お化けもまた、思考の幻想なんですよね。
そして、この幻想に出てくる他人も、そして自分もまた思考の幻想の一部なんです。
そして、この幻想性の見抜きこそ、楽園を取り戻すことになるんですね〜。
僕らは、幻想に惑わされることによって、ここにある楽園を見逃してしまっているというわけです。
つまりですね。
つまり楽園は消えてなくなったわけじゃなくずっとココに在ったということです。
アダムとイブは楽園から追放されたわけじゃなく、楽園にいながらにして楽園を見失っているということなのかもしれませんね。
ま、あくまで個人的な仮説ですけどね〜。