Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

幻想からの目覚め

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

ま〜僕らはねぇ。
思考にあれこれと踊らされているわけなんですが、
何を持って踊らされているのか?っていいますとね。

「私は、大丈夫か?」

っていう問いに踊らされているわけなんですよね〜。

色々と現れてくる思考に「私」というものが含まれていなければ、
別に踊らされることはないんですよね。

試しに、
いちごパフェのことについてイメージしてみてください。
いちごは何個乗ってて、アイスクリームとウエハースがついてて、
ちょっとコーンフレークがあって、ベリーソースとクリームがあって、、、。

ってねぇ。
いやー。良いイメージがわいてきますよね〜。

この思考に対しては別に踊らされることって無いですよねぇ。

でも、ダイエット中だ!というのであれば踊らされるかもしれませんね。
それはこの思考に「私」が加わってくるからなんです。

では、雲についてイメージしてみましょう。
これだって、入道雲があって、うろこ雲があって、、、
とイメージしてみても、なーんにも踊らされることはありませんよね〜。

でも、老後のことについて考えてみると、
途端に、
「私、大丈夫だろうか??」
って不安になっちゃったりしますよね〜。

これもまた、思考に「私」が加わってくるからなんですね〜。

 

比較に私が加わると不安になる

ちなみに、思考っていうのは、ありとあらゆるものを分類して整理するという機能を持っております。
そして、この分類される際に使われる概念が「比較」の概念なんですよね。

この「比較」の概念に、「私」を加えると、とたんに僕らは不安に悩まされてしまいます。

なぜなら、この「比較」には、正負の観念がつきまとってしまうからなんです。
そして、この「比較」の概念にさらされた「私」は、

もしかして、私は足りないんじゃないだろうか?

っていう思いを作っちゃうんですよね。

この足りないが僕らを不安にさせているんです。

この足りないをずっと抱え込んじゃったりするから、
SNSではやたらとマウントの取り合いが起こったり、
自分の承認欲求に支配されてしまったりといったことが起こっちゃうわけでしてね〜。

そうやって、僕らは思考に踊らされてしまったりするわけなんです。

比較は単なる概念に過ぎません

そもそも、比較なんていうのは概念に過ぎません。
概念っていうのは、蜃気楼のようなものであって、あるように見えて無いものなんです。

オバケみたいなものなんです。

だからね。
そんな比較を頼りにして、自分を満たそうとしても満たされるはずがないんですよね〜。
むしろ、この比較だけが、自分に対する不足を作っているんです。

この不足もまた、蜃気楼のようなものなんです。

とは言えね〜。
「そうは言っても、どうしても思考に踊らされてしまうんですけど〜。」
「どうしたら良いの〜!」

って感じる方もおられるかもしれません。

そういうときにはどうしたら良いのか?といいますとね。

自分が見ている蜃気楼を確かめてみて、そこにツッコミを入れてあげれば良いんです。

幻想からの目覚め

どうやって蜃気楼を確かめるのか?といいますとね。

まず、あなたは、あなた自身をただ肯定してあげれば良いんです。

ただ肯定するんです。
だいじなのは、ただ肯定するの「ただ」の部分です。
つまり無条件で肯定してあげるってこと。

なんでもない自分をそのまんま肯定してあげればいいってことなんですよね。

そこでね。
「でも、今の自分はこんなだし、あんなだし、、、」
って色々と言い訳が出てくるかもしれません。

この言い訳こそが、比較の蜃気楼によって作られた幻想なんです。

ここですかさず「お前かー!」ってツッコミを入れてあげるんです。

そして、自分はこうあるべきというハードルをおもいっきり下げてやれば良いんです。

ま、すぐにはできないかもしれませんけどね〜。
そうしてやることによって、少しずつ、僕らは蜃気楼という幻想から目覚めていくんです。

 

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