はじめに
はいどうも〜。
おはようございます。
タクさんです。
さてさて、僕らってね。
感覚で捉えた世界を、思考のフィルターを通して別の世界に作り直しをして、
その世界の方をやたらと見ている。
ということを長年のクセでやっているわけなんですよね。
そして、このフィルターを通した世界ばっかりを見ているので、
生のダイレクトな世界というものをついつい見逃してしまっているというわけです。
ちなみに、思考から離れるとこのダイレクトな世界は蘇ってくれますし、もうこれで完結しているってことも感じ取れるわけなんですがね。
とはいえ、思考ちゃんの働きは消えて無くなるわけではありませんので、フィルターの世界もまた展開し続けるわけです。
ちなみに、この思考のフィルターというのはね。
そのほとんどが、比較の概念というものによって作られています。
思考ちゃんは比較の概念を使って、世界を構築するわけなんです。
そして、この比較の概念によって架空の境界線が色々と引かれるわけです。
でもって、この架空の境界線が引かれることによって分離の概念も作られるというわけですね。
実際に、この世に分離というものは存在していません。
だから、全てはワンネスであると言われたり、二つに分かれていないから、
「二元に非(あら)ず」ということで非二元と言われたりするわけです。
でね。
僕らを苦しめるのもこの分離の概念が元になっているわけでして、
この分離もまた比較によって作られるわけです。
ただね。
全ての比較や分離が苦しみになるわけじゃないんですよ。
これらは全部幻想みたいなものですからね。
そもそもは無味無臭です。
だから、本来は比較やそこから起こる分離で苦しみになることはないんですけどね。
錯覚をすることによって比較や分離が苦しみを生じさせたりするんです。
そして、比較の種類によって「苦しみを生じさせるもの」と「害のないもの」があるんです。
というわけで、今日はその比較をテーマに書いてみたいと思います。
・ヨコの比較とタテの比較
そういうわけでしてね。
比較には、苦しみを生じさせる比較と、なんの害もない比較があるんです。
でね。
実際に苦しみを生じさせるような比較って、必要ないんですよね。
「そもそも、なんで比較に苦しめられなきゃいかんのよ!」
って話ですのでねぇ。
騙されてるんですよ。
皆さんもっとこの比較に対して怒った方がいいかもしれません。
まあ、この比較も自分でやっとるわけなのでその怒りもまた独り相撲になってしまうわけなんですが、
にしても、安易にこの苦しみを生む比較に乗っからない方がいいんです。
では、この害のない比較と苦しみを生む比較。
これはどういうものかと言いますと、
ヨコの比較とタテの比較です。
ヨコの比較は害がありません。
単なる区別ですからね。
思考の世界を作るためにも比較は必要ですからね。
ヨコの比較を採用している限り、思考の世界に苦しめられることはないんです。
・厄介なタテの比較
厄介なのは、タテの比較なんですよ。
こいつが僕らを苦しめるんです。
タテの比較とは、単なる区別ではなく、この区別に正義と悪だったり、優劣だったり、
そういう無駄な概念を付け加えたものなんです。
上下の関係ができちゃう比較なんですよ、このタテの比較は。
こいつがありもしない価値を作り上げ、この価値によって自分を苦しめるんです。
自分には価値がないという幻想を作り上げたりするんですよねー。
また、自分は価値がある!って思い込もうとしたところでね。
これもまた、結局は不安を生み出すだけなんです。
自分への価値が無条件のものならいいんですよ。
でも、タテの比較によって作られた幻想の価値は、自分が上に立ったとしても不安を生じさせ、下になった場合は、自分には価値がないという幻想を生み出すんです。
そして、このことが僕らの苦しみの源泉となっているんですよねー。
だからね。
自分が持ち込んでしまっている比較の概念が、タテの比較だなーって感じたなら、
もうすぐに、くるっと回転させてこのタテの比較をヨコの比較に変えてやればいいんです。
良いも悪いも、正しいも間違いも、正義も悪もありません。
光と闇が戦っていたりなんてしていません!
悪のレプタリアンなんていません!
高次元も低次元もありません!(笑)
あるのはただの便宜上の区別だけなんです。
ですので、是非とも自分の中にタテの比較があるなーと感じたなら、
くるっと回転させてヨコの比較に変えてやってくださいね!
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