Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

全てが在る。そして誰もいない。

はじめに

へーいっ!
どうもおはようございます!
タクさんです。

皆さんは映画はお好きですか?

僕はけっこう好きなんですけどね〜。
なんか、最近はあまり映画館に行けてない気がしますね〜。

なんかねぇ。
最近は身の回りにもコンテンツが増えすぎて、
ちょっと映画館に行くハードルが上がってるような気がするんですよね。

ネットフリックスなら、映画を見始めても途中で止めて他のことをやって、
また戻ってとか出来ますし、つまらなかったら途中で見るのをやめちゃいますし、
本や漫画もすぐにダウンロードして読めますからね〜。

それをわざわざチケットを買って、指定の時間に足を運んで、そしてぶっ続けで観なきゃいけないんですもん。
そうなると、どうしてもつまらない映画は観たくありません。
だから、間違いない!という映画しか観たくなくなるっていうね。

そんなハードルが上がってる気がします。

これってねぇ。
なんか、ちょっと寂しくも感じますよね〜。

昔なら、映画行って、
くはーっ!クソつまらんから寝てしまったー!
なんてことがよくあったものなんですが、その許容範囲が小さくなってきているっていうか。

なんかねぇ。
スマホとかネットとかが発達して、色々と便利になって、
余剰の時間も増えたはずなんですが、
逆に忙しくなってしまった。
みたいな感覚があります。

これはこれで、ちょっと窮屈だなぁ〜と感じたりもするんです。

調べ物をするのに図書館に行くなんてこともないですもんね。
その変わりに調べ物をしているうちにぜんぜん違うことに興味が引かれたり、
本の題名につられてこっちも読んじゃう!ってな場面もなくなってきているように感じます。

こんな今だからこそ、もうちょっと意識的に無駄時間を作っていかなきゃいかんなぁ〜。
なーんて感じたりしております。

 

ストーリーの自分とそれを観る自分

さてさて、
そんな映画なんですが、面白い映画とはなにか?
ってなると、皆さんそれぞれの意見があるかと思いますが、
共通する面白さとしてはね。

映画を観ているうちに、その主人公なり登場人物なりに感情が移入していって、
まるで映画の主人公が自分のことのように感じ、そしてその物語の中に没頭していく。

そんな映画は面白い映画だと思うんですよ。
そうさせるために映画の作り手もうまく設計しているんでしょうけどね。
その設計にうまくハマると面白い映画になると思うんです。

でね。
そんな面白い映画を見ているときって、
映画の主人公が自分になっているんですけど、同時に映画を観ている自分ってのも
ちゃんとわかっていて、どっちもあるんですよね。

それでいて、
どちらの自分にもちゃんと気づいている何かもしっかりと在るんです。

全てが在る。そして誰もいない。

これね。
思考のストーリーに同化しているときも一緒なんです。
映画が思考のストーリーに変わっただけなんですねー。

思考のストーリーにもその中心には「自分」がいます。
そして、同時に、思考をしている自分もいますよね。

思考のストーリーの中にも自分がいるし、思考しているのもこれまた自分っていうね。
さらには、そのどちらにも気づいている存在も在るんです。

映画に集中しているときは、主人公としての自分が色濃くなり、
映画の集中が途切れてくると、映画を観ている自分が色濃くなるんです。

思考のストーリーも同様で、
思考の中の自分が色濃くなることもあれば、
「なんで自分はあんな事を考えてしまうんだろう?」
っていう、思考する自分(思考を観ている自分)が色濃くなる場合もあるってことなんですね〜。

そして、どんな自分もまた気づいているわけです。
気づいている本体は誰なのよ?って話なんですがこの気づいている何か?ってのは、
存在していなくて、気づきだけが在るんです。

この辺になるともう、思考のルールである主体者という概念が通用しなくなるので、思考で掴み取ることができなくなるってことなんです。

なので、
全てが在る。そして誰もいない。
っていうね。なんとも言えない表現になっちゃうんです。

 

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