Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

はざまの静寂

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

いやー、最近どうにもお腹の調子が悪くてですねぇ。
若干寝不足な毎日を過ごしております。

季節の変わり目って、体の調子を崩しやすいですよね〜。

僕は金魚を飼っているんですが、金魚たちも季節の変わり目は体調を崩しやすいので、
餌の量や水の温度に気を使ってやらなきゃならないんですが、
やっぱり環境が変わるときってのは、調子を崩しやすいのかもしれませんね〜。

みなさんも、お身体ご自愛下さいませ。

さて、痛みを感じているときって不思議なものでして、
痛みそのものになっているときと、その痛みを体験している者になっているときがありましてねぇ。
その両岸を、いわゆる「私」が行ったり来たりしているんですよね。

「イタタタ!」ってなってる時は、まさにこの痛みが私でして、
「ふぃー、調子悪いなぁ、どうしたもんかなぁ」ってね。
痛みの体験者としての私がその次にやってきて、その痛みをみている。

みたいなね。

この両辺のどちらがホントのワタシなのだろうか?
体そのものがワタシなのか?それとも体を観ている者がワタシなのか?

ってね。

体験と体験者がいるという感じでしょうか?
そして、「私」はその間を行ったり来たりしているわけでございます。

 

体験と体験者

この体験と体験者は、あらゆる時に出てきております。
たとえば、
「私はすぐにこういう考えにハマってしまうんだよね。」
って思ったりするじゃないですか。

それって、体験者としての思いですよね。
でも、考えにハマっている時は、体験そのものになっているわけです。

ですが、このどちらが私なの?というと、
そのどちらも「私」ではないんです。
実はこの体験と体験者には、はざまがあるんです。
このはざまに在るもの。
それが私なんです。
※この私はいわゆる主体者としての私ではないのでややこしいのですが、、、。
そもそも主体というものは思考の中にしか存在しておりませんのでね。

体験と体験者のはざま

このはざまに在るのは、いわゆる気づきです。
よく気づきという言葉には、何かしらのアイデアを得ること。
みたいな解釈があったりしますが、ここで言っている「気づき」は、
そういうことではありません。

ただ、気づいている。
誰でもない、何者でもない、なんでも無いものがただ気づいている。

それが、ここで言う気づきなんです。
私が気づいているんじゃないんです。

この気づきがあって、そのあとにその気づきの中の体験か、もしくは体験者の方に入っていくわけですね。
そして、その後に「私」をペタっとつけているといった感じです。

体験と体験者のどちらにもよらずにただ在ってみることで、
ただ、気づいているということを僕らは知るわけなんですね〜。

このはざまが、いわゆる中道なんです。

観照者

ま、この辺の説明は、ちょっと言葉で説明できない部分なので、
言葉では完全に表現できないんですけどね。

このはざまに在ってみるには、まず、喧騒を取り払わなきゃなりません。
この喧騒とは、いわゆる思考のおしゃべりですね。

よく、瞑想や座禅がオススメされているのも、このおしゃべりから心的な距離を取るためなんです。

そして、静かになってきたなら、身の回りに起こっている、体験や体験者のどちらにもよらずに、そのはざまにただ在ってみるんです。

すると、私とは、ただそれを観ている者なんだ。
ということが、わかってくるかもしれません。

そう、僕らはずっと、ただ観ている者だったんです。

はざまの静寂にただ佇む

でね。
その観ているに在る時に、その観るさえもやめてしまうんです。
すると、視点を失った観るは、最初は内側にその視線が移ってくるかもしれませんが、
そのうち、その内側に「なんにもない」ことを知った後、その観るは消えていきます。
するとその「なんにもない」が全体に広がりだすんです。

この感覚?が、はざまの静寂です。ここに在ってみることで、コレが全てであることを知りますし、そんな全ての中で、どのようにストーリーが芽生えてくるのか?なんてこともみえてくるんです。

ま、というわけで、今日の記事はちょっと言葉で表現できない部分を表現してみましたので、もしかしたら、訳がわからん感じになっちゃったかもしれませんね。

ここで、深く考えずに、逆にわからないをわからないままにしておいてみたらどうなるだろう?って感じで、ただ在ってみてください。

そして、静かになってきたならば、その中にただ佇んでみることをオススメします。

 

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