Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考の引力と気づきの話

はじめに

にょほほほ。
おはようございます。
自称雑学王のタクさんです。

なんだろ?
モノゴトを知るってね。
なんか、なんとも言えない魅力がありますよね〜。

だから、いろいろと知りたがりになっちゃうわけです。
いわゆる知的好奇心ってやつなんでしょうね。

最近はめっきりテレビをみないのですが、
たまーに、夕食時にテレビを付けてみると、
やたらとクイズ番組が多いですよね。

これ、みてるとついつい、答えてしまいます。

そして、あたるとほくそ笑んだりしてね。
怪しいやつです。

クイズ番組が多いのも、
これまた、知ってるという魅力。また知識を得るという魅力があるからなんでしょうね〜。

いい匂いについついつられてしまうのも、
タイプの人をつい目で追ってしまうのも、
カッコいいもの、カワイイものに惹かれてしまうのも、

これまた、なんとも言えない魅力というものから来るんでしょうね。

魅力ってね。
そのもの自体になにか力があるわけじゃなく、
その力の源泉はこちら側。
つまり惹かれている側に在るんですけどねー。

なぜか、強い引力に引かれているかのような力を感じてしまうのも、
これまた不思議なものです。

 

思考の引力

思考のストーリーにも、えも言われぬ引力を感じたりしますよね。
そして僕らはついついそのストーリーに引き込まれてしまうわけです。

これもね。
よくよく観察してみると、別に思考の方に引力があって、
その引力に自分が引き込まれているというわけではなくて、
その力の正体はむしろ自分の方にあるわけです。

だから、力を抜いてしまうと途端に思考のストーリーの引力も消えてしまうんですよね。

試しに、思考のストーリーに引き込まれている時に全力疾走してみるとよくわかります。

全力疾走ですからね。
自分の力は走ることに全て使われてしまいます。
すると、思考のストーリーに使っている引力は消え失せてしまうんです。

一見向こうからやってくるように見える引力は、実はこちら側の力だったんですよね。

思考はツール

僕らは心の状態や、思考のストーリーや、ありとあらゆる感情に引っ張られているように感じていたりしますし、
ときにはその力がとてつもなく大きなものに感じたりもするわけですが、
実はそれらは、何かしらの大きな力を持っているわけではないんですよねー。

これらはすべて思考なんですが、その思考は大きな力を持っているわけではないんです。

ただ、うまーく僕らを注目させるような何かを刺激して、
引き寄せているかのように演出しているんです。

思考から離れ、ただ在ってみると、そのへんのカラクリも徐々に明らかになってくるんです。
カラクリとは簡単に言うと、思考はツールであるということであり、そのツールに僕らは翻弄されていたということなんです。

そして、それらの全てにただ気づいていたということなんですね〜。

私は光

そう。
ありとあらゆる起こっていること。
それにただ気づいている。
その気づきが、なんていうかちょっと語弊があるけど本来の自分なんです。

それは光と言ってもいいかもしれません。

真っ暗闇で何かを見ようとするとき、そこに光をあてますよね。
その光が気づきなんです。

光は何にも干渉されず、依存されず、ただ光を当てているだけです。
そしてその光が跳ね返ってきたものを僕らはみているわけです。

光があたるから、そこにあるモノがみえているようでいて、みているのはその光そのものでもある。
っていうね。

この光だけがあり、同時にモノがあるようにも見えているって感じなんですよね〜。

 

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