Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

分からないを知るということ

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

ま、このブログで書かれているような
わかったような??わからんような??
そんな話を聞いてますとね。

うーん。
やっぱりわからんなぁ〜。
どうすればわかるんだろう??

ってな思いにさいなまれる事もあるかもしれません。

そして、いわゆるメッセンジャーとかティーチャーとか覚者などと呼ばれている人に、
どうにかして答えを聞きたくなっちゃうんですよね。

で、話を聞いて、
「おー、なんとなくわかった気がするし、楽になった気がする!」

って、その時は感じたりするんですけどね。

でも、
しばらくすると、
ホントにわかったんだろうか?って確かめたくなっちゃったりしてね。

それで、確かめた途端、
「あ、全然わかってない!」ってことに気づいたりしてね。

そしてまた、

うーん。
やっぱりわからんなぁ〜。
どうすればわかるんだろう??

に戻ってきたりするんですよね〜。

こちらを読んでいただいている方の中にも、
そんな感じになってるー!って方もおられるかもしれません。

というわけで、
今日は、あの人はわかっている!にだまされないようにしようっ!
ってなことをテーマに書いてみたいと思います。

 

だれもわかってはいない。

だまされないようにしようってどういうこと?
と言いますとね。

どんなティーチャーも、覚者と呼ばれている人も、メッセンジャーの方たちも、
わかってないんです。

ただ、わからんを知っているということなんですよね〜。

だからね。
自分の知らない答えをあの人たちは持っているということとはチョット違うんですよね〜。
ただただ、わからんを知っているだけなんです。

よく起こってくる思考で、
「自分はどれだけわかってるんだろう?」
ってなことを確かめたくなる事ってあると思うんです。

とくに探求の期間が長いと、
どの辺りまで到達してるんだろう?
ってなことを確認したくなっちゃいますよね。

でもね。
この問いを思考の中でつぶやくと、
「あー、まだわかったとは言えないな〜。」
にどうしてもなっちゃうんですよね。

だって、この話はわかるようなものじゃ無いからなんです。

だから、わかったとは言えないと思ったのなら、それが正解なんですよね。
そこで、先に進もうとせずに、正解なんだからもうそこにとどまってりゃ良いんです。

わかるは、分け方の発見である

わかるっていうのは、
どこで分けたらしっくり来るか?みたいなものなんです。

僕らは、分離のない全ての中で、
あらゆるものを分けて整頓するってことをやってるんです。

ですが、実際には分離なんて存在してませんからね。
分けて整頓するというのは、思考の中でやってるんです。
つまりイメージしているんです。

そして、今まで以上にしっくり来る分け方!みたいなことを発見すると、
「分かった!」
になるんですよね〜。

つまり、「わかる」は「分ける」なんです。

僕らが使っている言葉もすべて、分けたものにレッテルを貼ったものなんですよね〜。

分からないを知るということ

でもね。
この分け方って思い方しだいでなんとでもなるじゃないですか。
なんとでもなるということは、言い換えると、そもそも分かれていないからなんです。

分かれていないものを、イメージ上で分けた「てい」にしているから、
いくらでも分け方というものは存在しちゃうんです。

そして僕らはその中から納得できる分け方を手にしようと探求するわけなんですね~。

つまり僕らは、分け方のレシピを探し求めているんです。

ですが、そもそも分離なんてものは無いんです。
また、チョットややこしいですが、「ある・ない」というのもまた分離の一種ですので、
あるも、ないも、無いんですよね〜。

この辺がちょっと言葉の限界になってしまうんですが、
なぜなら、言葉自体がそもそも「分ける」を前提に作られた道具だからなんですよね〜。

そもそも全てに分離はありません。
分かれていない。
つまり「分からない」なんです。

分からないを知るとき、自分を縛っていたあらゆる檻も実体がないことを知るんですよね〜。

なのでね。
分け方を知ろうとするより、ただ分からないまんまに在ってみれば良いんです。
そして、思考で何かを納得すると言うよりは、わからないまんまの感覚に漂ってみれば良いんです。
漂いながら、おまかせするんです。

 

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