Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

わかったことは全て幻想

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

だめだぁ〜。
うまくいかないわぁ〜。

っていうのがね。
もうそれで、うまくいっているのだとしたら、

つまりは、うまくいかないわぁ〜。って思ってることを含めて、
もうそれで良いってことなんですけどね。

そして、それで良いのなら、
うまくいかない自分を責める必要も無いんです。

責められる自分がいないのなら、
そもそも、うまくいってないという思いも湧いてこないというわけでして。

この辺のパラドックスを生じさせているのもまた、
思考というわけです。

なぜ思考はパラドックスを生み出してしまうのか?
というと、分かれていないものを分けてしまうからであって、
分けてしまうことによって、僕らは益々思考に絡め取られ、
自由を失っていくというわけです。

ま、
そういうわけで、何もわかることなんて無いんです。

僕も何かがわかっているわけではありません。

単に、分からなくても良いということを知っているだけなんです。
分からなくても良いというのは、分けなくても良い。
つまり分離しなくても良いということなんですね〜。

実際に分離なんて無いんですよ。
そしてどんなものも分けられないんですよね。
なので、分かったこと(=分けられたもの)は全て幻想だったんです。

 

全てしかない

全てしか無いっていうのはね。
当たり前っちゃ当たり前ですよね。

だってあるのは全てなんですもん。

全て以外のなにか?を探そうとしても、全てが全てである限り、全て以外のなにかは存在しないわけです。

そして、全てしかないということは、全てだけがあるということでもあるんです。

あ、
決して言葉遊びをしたいわけじゃないですよ。

ただ、わかりたいという衝動が、この全てを見失う原因になっているんです。

思考から自由になる

あ、全てしか無いんだ!がわかるというのはどういうことかというと、
思考から自由になるということなんです。

思考から自由になるというのは、どういうことか?といいますとね。

それは、わかる、わからないという呪縛から解放されるということなんです。

そして、わかる、わからないという呪縛から解放されるというのは、
何かを手に入れるということではなく、
手に入れなくても良いんだ!ということを知るということなんです。

そもそも僕らは何も掴んだこともなく、手に入れたこともないんですよね。
そして、今後も何も掴むこともなく手に入れることもないんです。

だからみんな、裸で生まれて裸で死んでいくわけですからね〜。

ちなみに、生と死というものもまた分離の中の概念なんですけどね。

今のまんまで許されている

ただね〜。
そういうことを書いちゃうと、

「あー、私はまだ、わかろうとしてるからダメだ~!」
って思っちゃうかもしれませんけどね。

これもまた良いとダメの分離なんですよね。
そして、分離の中には当然全ては入りません。

かばんのなかのポケットにかばんを全部入れようとするようなものですからね〜。

なので、わかろうとしている私に関しては、変えなきゃならないことなんて一切ないんです。
変えなくていいってことがわかるほどに、私は今のまんまで許されていくんです。
そして、全てはすでに許されていたことを知るんですね〜。

また、やらしいことに、それを知るのも「私」ではないんです。

ややこしいですね(笑)。
ではまた!明日お会いしましょ〜!

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