Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【色即是空 空即是色】わかったを剥がしてみよう!

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

僕らはね〜。
物心ついたときから、ずーっといろんなことを教わってきましたよね〜。
もうね。赤ちゃんなんて純粋の真っ白だから、
どんなことでも吸収しちゃいます。

その後も、学校教育なるものがはじまって、
更にどんどんと色々教わります。

そしていつしか、
たくさん知るほど、賢くなって、
いろんな事ができるようになる!
と信じるようになったんですよね。

だから、わからないものは、わかろうとしちゃう。
わからないことをわかるに持っていく。

なんかそんな方向性がクセづいちゃってるんです。

人間ってね。
他の動物に比べて、かなり未熟な状態で生まれるじゃないですか。
そして小さな子供の頃って、ロクになんにも出来ないんですよね。
大人に比べてなんですが。

ボール投げるのにも、大人のようにうまく投げられないし、
走るのだって、大人には全然かなわないし、
ジャムのフタを開けるのもうまく行かないし、
高いところには背が届かないし、

他の動物に比べて、随分長い間「出来ない」経験をさせられてしまうんです。

もしかしたら、そういうところも一種のトラウマみたいなものとして残っているのかもしれないですね。

また、そうやってどん底のなにも出来ないからいろいろ出来るに変わってきたので、
やはり、いろんなことを知り、分かることで自分はより良くなる!

みたいなクセ付けがかなり強力になっているのかもしれません。

 

目の前のコップは本当にコップなの?

でもねぇ。
たとえば、目の前にあるコップだって、本当にコップなのか?と考えてみたら、
それはとっても怪しいものです。

だって、コップだなんて思っているのは僕らだけで、ネコから見たらなんでもない物体ですもんね。

机の端っこにおいてあるコップなんて、ネコから見たら、
ヒョイと手を払って落として遊ぶもの、ぐらいの感覚ですもん。

それがいくら、バカラのグラスだからって、
そんな価値、ネコはわかっておりませんからね。

このわかっていないというのが、ついつい僕らから見たら、
ネコは理解力がないから、価値なんてものがわからないんだよな〜。
って見えちゃいますけど、もしかしたら、
僕らが変に何かをわかっていると思いこんでいるせいで、
幻想の世界をみているのかもしれないんです。

幻想世界とは

ま、このよく言われる幻想の世界っていうのは、
「わかっている」から始まる様々な思考が、ある種のフィルターになってしまっていて、
そのフィルターを通した世界をみているということですからね。

で、おもしろいことにこのフィルターって実在するものじゃなくただのイメージですので、
みている世界は、全然違って、全く一緒。
ということになるんです。

ついね。
幻想だ〜なんて言われると、みているものと違うものを探そうとしちゃうんですが、
実は一緒なんです。

「色(しき)」がフィルターを通して色付けされた世界なんだとすれば、
「空(くう)」はそのフィルターを通さない世界であり、

そのフィルターの色付けは実在しておりませんので、
結局は、色と空は全く同じものなんですね〜。

つまり、色即是空、空即是色だというわけです。

わかったを剥がしてみよう!

このフィルターは、思考で出来ています。つまりはイメージです。
そして、思考というのは何かというと、あらゆるものを分離し、
分けられたものを整理整頓をして、そして分けられたもので構成されるストーリーなんです。

なので、このフィルターを通さないということは、分けないままにしておく。
ということになるんです。

思考は分ける機能をもった働きですのでね。
それを分けずにいるということになるわけです。

これは、言い換えると、わからないままに在ってみるということになるんですね〜。

分けないままは、わからないままなんです。

このわからないままというのが、ちょっと難しいな〜って感じるのなら、
まずは、わかっているということから、その「わかった」を取り除いて、
分けずにいてみる。
というのを試してみたら面白いかもしれません。

わかったを徐々に剥がしていくって感じですね。
「あ、コップだ!」と思ったなら、「これはコップにあらず!」と剥がしちゃうイメージです。

うまく剥がれたなら、そこには、なんでも無い「生」の物体が登場するはずです。
一切を分けずにいたとしたら、全てが何でも無い全体として現れてくるんです。

 

 

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