Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

手放すとお任せ、そして探求の終わり

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

どんな分野でも言えることなのかも知れませんが、
物事って学べば学ぶほどにわからないことが増えていっちゃう。
なんてことがありますよねー。

ですので、あまりにやたらと、
「俺はわかっている!」
「私はわかっている!」
っていう人はあまり信用できないのかも知れませんねー。

専門家であればあるほど、わからないことが多いってことになりますもんね。

さてさて、
ヒトゲノムの解析が10年ほど前にほぼ完成したらしいんですが、これだって当初はこの解析が終われば人類はありとあらゆる病を克服する。寿命や老いさえ克服するかも知れない!って期待されておりましたが、解析されたらされたで、余計にわからないものが増えた!なんて話も聞いたことがあります。

わかればわかるほど、わからないが増えていく。
だからこそ僕らはこの学びという遊びにハマりまくっているのかも知れませんねー。

 

簡単すぎると掴めない

ま、そうやって学びを遊ぶのはおおいに結構ですし、僕もそういう遊びが大好きなので、いろんな本を読んだりしているんですが、いかんせんこの「それ」だとか「これ」に関しての話は、完全に人智を超えたものになりますからねー。
学んで何かを得る。
ということではないんです。
もちろん、多少の学びってのは必要なのかも知れませんけどね。

ただ、人智を超えたもの。
なんて言われると、とてつもなく難しいものなのでは?
って感じるかも知れませんが、そうではないんです。

むしろ、簡単すぎてとっかかりがないので、掴みようがない。
ということなんです。

簡単なもののほうが僕らは理解しやすい。すなわち掴みやすい。
ですが、その簡単さ、単純さが極まると、取っ掛かりがなくなって掴めなくなる。
っていうニュアンスですかね。

掴みようがない。つまり掴めないので、人智に持ってくることができないということなんです。

つまり、「わからん」ということなんです。

わからんは足りないではない

思考ちゃんはこの「わからん」と対面すると、分からないということは、これをわかるための判断材料をまだ手に入れてないんだ。
何かしらの判断材料を手に入れることでわかるはずだ。
この材料を探し出さなければならない!
ってやっちゃいますのでね。

「わからん」ということ自体が探求のエネルギーとなり探求を始めるわけなんですが、決してこの「わからん」は何かが足りないというものでもなく、劣っているというわけでもないんです。

むしろ思考の中でわかるとしているものは、全て何かしらの判断基準を持って分けているということなんですが、そんな分離は存在しないよね。
って話ですのでねー。

なので、この思考ちゃんによる探求への誘いに乗っからなければ、思考で作られた分離の世界から目覚めるというわけなんです。

探求の終わり

探求の終わりとは、思考が探求をやめるということではありません。
思考の働きと探求はセットになっておりますし、思考の働きそのものが探求ですのでね。
その思考に探求をやめさせることはできません。

その思考ちゃんの支配から抜ける。ということなんですよね。

思考に支配されなくても、何ら問題はないということを知るんです。
そして、その支配が解けて軽くなるんですね〜。
私が探求してるんじゃなく、ただイメージの中で探求っぽい何かが起こっているだけだったんです。

この思考の支配が手放されること。
これが手放すなんです。

もちろん、誰かが何かを手放すということじゃないんですよ。
「誰かが何かをする」という建て付け自体が思考の中にしかないイメージですからねー。

ま、手放すをあえて簡単にいうと、ただただわからんままにリラックスする。
ということになるんです。

思考は「私」がしているものではなくて、思考の中に「私」があるだけですのでね。
「私」がちゃんとコントロールしなければならないものではないんです。
なので放っておいても、ちゃんと思考ちゃんは機能してくれるんです。

これがお任せする。ということなんです。

 

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