Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

目覚めの視点ってな・あ・に?

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

「知恵の実を食べた人間はその瞬間より旅人となった」
なんていうフレーズを何かのゲームで見た気がするんですが、
まさに!って感じがします。

知恵というものを手に入れたがゆえに、僕らの探求は始まり、この探求の終わりを目指す旅を始めたわけですからねー。

知恵の実は禁断の果実とも言われます。
僕ら人間は動物の一種なんですが、この禁断の果実を手に入れたことで、我々は、万物の霊長である!なんていう錯覚を持つことになってしまったんですねー。

この錯覚のもととなったのが知恵という幻想なんです。
この錯覚の夢をぼくら人間だけが見ているんです。

知恵だと思っているものは、実は幻想であり、砂上の楼閣であり、夢だったわけですねー。

ですが僕ら人間はこの夢を見る性質を持って生まれておりますので、
ここから逃れることはできません。

でも、夢を夢であると知ることはできるんです。

この知ったことを夢の中に持ってくることはできません。
単純に知るだけなんですが、これを知ることで、僕らは夢を見ることで見失った至福を取り戻すことができるっちゅうわけです。

ま、この至福っていうのは、思考が求める幸福とは違うんですけどね〜。
幸福は不幸とセットとなっているんですが、至福は完全に至福なんです。
ですが、至福は幸福ではないんです。

 

目覚めの視点ってなあに?

よくね。
目覚めの視点からみると・・・。
と言ったような表現に出くわすことがあります。

表現は様々で、
悟りの視点だったり、いまここの視点だったり、
ワンネスの視点だったりと色々です。

こう言ったことを聞いちゃうと僕らはつい、
モノの見方の話なのかな?って感じちゃいますよね。

私はいないという感覚からものを見るってこと??
みたいなね。

でもこれって、モノの見方の話とはちょっと違うんですよねー。

僕らは普段、モノの見方というと、
物事に対して、今までとは違った視点からモノを見ることだと思うじゃないですか。

そして、このモノをみるというのは、考え方や捉え方だったりしますよね。

モノの見方を変えるとは、物事の捉え方を変えることによって、
感じ方、考え方を変えることですよね。

だからついつい僕らは、
ワンネス視点の捉え方があるのか?
目覚めの視点の捉え方があるのか?
といったように、捉え方を探ろうとしちゃうんですよね〜。

そして、そのせいでこの捉え方を探ろうとして、変にハマっちゃうんです。

知恵の実の正体

だって、捉え方を探ろうとすると、
これは、言葉を超えたモノなんです。
だとか、
わかることじゃないんです。
とか言われちゃいますからねー。

わからなかったら、捉えられないじゃんっ!
どうゆうこと??

ってなるんですよねー。

でもこれは捉え方じゃないんですよ。

ここで言われている視点というのは、いわゆる判断基準とか新しい捉え方とは違うんですよね。

捉えて解釈するということからの脱却なんです。

知恵の実を食べて探求の旅が始まったというのはね。
捉えて解釈するというクセを身につけたことで、どんなことに対しても解釈の方法を求めるようになってしまったということなんです。

知恵の実の正体は物事を捉えて解釈するというクセのことだったんですよね。
そして、このクセをクセであることを忘れ、解釈は単なる「てい」出あることも忘れてしまったことで、解釈を現実だと錯覚し始めたんです。

それが夢だと言われているゆえんなんです。

目覚めの視点とは

いわゆる目覚めの視点とは、モノの見方ではなく、もっとなんていうか動物的なと言いますか、超自然な感じなんです。

それは僕らが生まれながらに持っている感じ方、感覚なんです。

僕らが解釈ということを知る以前に持っていたもので、今もちゃんと持っているんですよね。

これを持った上で、思考のストーリーによる視点でモノをみることができるわけですが、この声が大きいので、精妙な元々の感覚が打ち消されているといった感じなんです。

ですが、ちゃんと思い出すと誰でも取り戻すことができるものです。
っていうか、一ミリも失っていないモノですからね。

これがあるから、思考のストーリーが出来ているわけですので。

そして、この視点を思い出す入口が、今ここであれこれと起こる思考の喧騒から離れて、ただただリラックスして在ってみるということなんです。

 

 

↓セッションでも、そんな喧騒から離れてただただ緩む。
そんなお手伝いをしています。よかったらご検討くださいまし。

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