Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

本質はどこに在るのか?

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさん。
昨晩はいい夢をみましたか?

いやー、夢って面白いですよね〜。
見ている間はそれが本当のことだって思い込んでたりするんですけど、
目が覚めてみると、その夢の中の出来事ってものすごく荒唐無稽だったりするんですよね。

なぜ、こんな荒唐無稽なストーリーを本当だと感じていたんだろう??
って不思議な気持ちになったりするものです。

でもね。
実は、ちゃんと目覚めていて、まともなことを考えている。
と思っていても、それもまた荒唐無稽な夢のストーリーと同じようなことかもしれないんです。

思考ってね。
今の状態に対してちゃんと納得できるようなストーリーを組み立てるようにできていますからね。

その思考のストーリーを見ているときは、それが真っ当なものだと感じさせられてしまうんです。

ほら、いわゆる陰謀論的なものってあるじゃないですか。
はたから見ていて、なんであんな荒唐無稽なストーリーを信じている人がいるんだろう??
って不思議に感じたりする方もおられるかもしれません。

これもまた、夢と同じなんです。

なのでね。
まずは、思考のストーリーはすべて幻想である。
ということをね。

どこか頭の隅にでも置いておいたほうがいいかもしれませんね。

 

本当のストーリーなんてものはない

とはいえね。
思考のストーリーが幻想なんだとしたら、本当のストーリーはどこにあるんだー!
って思っちゃったりしますよね〜。

でも、思考というのがそもそもストーリー仕立てで出来ていて、ストーリーというものは思考の中でしか存在し得ないものなんです。

ストーリー自体が幻想ということになりますので、ストーリーに本物も偽物もないんですよね。本当のストーリーという考え自体がすでに破綻しているんです。

思考の中でしか存在し得ないということは、実体はないということになりますからね〜。

ストーリーは言葉でできている

そして、ストーリーというのは言葉で出来ております。
この言葉というものもまた、思考の中でしか存在し得ないものなんですよね〜。

だってね。
このブログの文字だって、ただのシミみたいなものじゃないですか。
このシミに意味をもたせるのも思考なら、それを紡いでストーリー仕立てにするのもこれまた思考ですからね〜。
そして、思考というものは、どこまで行ってもイメージの粋を超えることはないんです。

だって、思考の力で誰かを殴ることなんて出来ませんもんね。
念力を使える人は別だとしても、そんな人見たことありませんからね〜。

それもこれも、思考には実体がないからなんです。

知っていることも全部イメージ

正義も悪も正しいも間違いも思考の中にしか有りません。
そして、
分かるというものも、これまた思考の中にしか無いんです。

分かるっていうのは、知っているに繋がりますよね。

わかったあとで、僕らは何かを知るわけですからね〜。

ということは、知るということ。
これもまた、思考の中にしか無いということなんです。

僕らが知っている!と思っていること。
これ、ぜーんぶただのイメージなんです。

僕らは、何かを知ろうとするために、わかろうとする。

分かるとは、分けるですので、どこで分けたらいいのか?を探ろうとするんです。

そして、イメージの中だけで、色んなものを分けて分離させるんです。

ですが、思考の中でいくら分離を繰り返してみたところで、それもまたイメージの粋を超えないんですよね〜。

わからないはココにある

知っていることが幻想であるなら、本質はどこに在るのか?といいますとね。
分けられる以前の、分けられていないあるがままのココにあるんです。

分けられていない。つまりはわからないココにあるんです。

だからね。わからないままで在ってみれば良いんですよね〜。
そのうち、わかりたいという衝動に気がつくはずです。

こいつが、探求のエネルギーであり、僕らを夢の中にいざなうエネルギーでもあるわけです。

 

 

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