Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

見てるぞ!という存在

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

一昔まえなんですけどね。
東京の至る所に、歌舞伎の隈取をした目のイラストのシールが貼られておりまして、
「見てるぞ!」って書いてあるんですけどね。

あれを見たとある外国人が、これどういう意味?
と聞いてきたので、
これは、
「悪いことをしたら誰かが見てるぞ!」という脅しのシールなんだと説明したところ、
「へ?なにそれ?それで犯罪防止になるなんて信じられない。」
という反応だったんですよね〜。

これを聞いて、
へー、海外ではもしかして、「天は見ている」的な考え方ってあまりないのかな?と感じました。

たしかに、キリスト教なんかでは後から懺悔するという事後報告制度ですもんねー。
それで事後報告でも絶対許してもらえるっていうね。

この天は見ているという感覚は東洋哲学なのかもしれませんね。

老子の言葉でも
「天網(てんもう)恢恢(かいかい)疎(そ)にして失(うしな)わず」
なんて言葉もあります。

ただ、老子のこの言葉は、善は必ず栄え、悪は必ず滅びるといったように捉えられていますが、前後の言葉をよく見るとちょっとニュアンスが違って、天の道は一見そうは見えなくても完璧にできているといったような意味なんですけどね。

 

見ているし、見られている感覚

まーでも、見ているし見られているって感覚はありますよねぇ。
例えば、
自分を見失ってしまった!
なんて言葉もあるくらいですからね。

これは、
普段はちゃんと自分を見ているってことですもんね。
じゃあ、見られている自分は誰やねん?
って話になるわけですが、
僕らは、つねに見ているし見られているというわけです。

結構何重にも見ている自分っていうのがいるんです。

自分の行動を見て、これは良いとか悪いとかを考えている自分。
そして、考えているのに気づいている自分。
ってな感じでね。

ただみている。気づき。

何重にも自分をチェックしている自分っていうのは、まあ思考のたぐいなんですが、
一切の批判もなくただみているってやつが、奥の方にいると思うんですよ。

優しい眼差しでただ観ているって感じのやつです。
単なる気づきみたいな感じですね。

神が見ているとか、天が見ていると言われているやつですが、
これらは一切の善悪の批判はしません。

大丈夫だよ〜って見ている存在です。

これこそが、神の正体である!というわけじゃなくて、
コレこそがアナタの本体なんです。

安心のコレ

あれこれとチェックしている自分というのは、
より良くなろうとしている思考の働きなんですけどね。
別にコレに乗っかろうとしなくてもいいんです。

つまりは、何者かになんてなろうとしなくてもいいんです。
ただ、そのままでいたらいいんです。
力を抜いて、ただポカーンと浮いていたら良いんです。
すると、「ああ、全てが許された愛の中で浮かんでいるんだ」という感覚がきっと蘇ってきます。
赤ん坊の頃は皆そうだったんです。
だから自分で何一つできなくても平気だったんです。

この感覚は一切なくならずにずっと「ここ」にあるんです。
そして、それがアナタの元でありアナタ自体の本体であり、真我なんです。

ココには一切の分離はありませんので、善悪もありません。
ただただ、気づいていて許されているんです。

恐ろしい目でみているのではなく、安心の眼差しでずっとココにあるんです。
その眼差しを感じてあげて、その眼差しそのものにあってみると良いかもですよ〜。

 

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