Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

観賞者であるということ

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はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさんお元気ですかー?
元気があれば、なんでもできる!

ってねぇ。ゆーてるわけですが、
元気ってねぇ。
元(もと)の気(き)って書きますよね。

これって、
元(もと)に気持ちがありますかー?
みたいなね。
そんな意味とも取れますよね。

元々、僕らには悩みもなく、怒りもなく。
強欲もなければ、嫉妬に恐怖もありません。

そもそも、思いすらありませんので、
思い通りにならないこともないんですよねー。

だから、元(もと)には苦は存在しないということになります。

この元(もと)とはまさに生命エネルギーそのものです。
僕らもこの生命エネルギーそのものなんです。

そして、この生命エネルギーはエネルギーであるがゆえに、
分離はないんですよねー。

この元(もと)にあるということ。
これが元気だということなのかも知れませんね。

 

見守るものであるということ。

僕らは元々は見守るものです。
実は見守るものと対象、これらは一緒なので厳密に言えば見守るものですらないわけですがねー。
でも、僕らが意識的に到達できるのはこの見守るものであるというところまでなんです。
いろんな思いがあることを僕らが知っているのも、僕らが見守るものであるからなんです。
だから、思いがあることも知っていますし、思い通りにいかない!ということにも気づいているんです。
実は、この気づき。これしかないんですよね。
どこまでいっても。

誰も何もコントロールしていない

思いや感情ってね。
起こってるから気づいているわけですよね。
そして、気づいた後にある条件に沿わないと感じた場合、
この思いや感情をコントロールしなければ!みたいなね。
そんな錯覚が起こるわけです。
ちなみにこの錯覚は生まれつき持っていたものではありません。
赤ん坊の頃は、思いや感情をコントロールできるなんてアイデアは持ち合わせていませんし、しようとすらしていなかったんです。
大人になっていくにつれて、そうしなければならないし、そうできるはずだ!
ってねー。
思い込んじゃっているんですよね。
でも、歴史上、誰もそんなことはできないんです。
ただ、できるのは、その思いや感情に乗っからないことだけなんです。

観賞者の意識

怒りや強欲、嫉妬に恐怖。
あらゆる同化しそうな思い。
これらを僕らは見守ることができます。
なぜ見守ることができるのか?
というと、そもそも僕らは見守る者だからなんです。

僕らはそもそも観賞者なんです。
それが気づきです。

ただ、気づいていればいいんです。
そうすると、そもそも気づきと対象も無いという真実が目覚めてきます。
なので、観賞者ですらなくなってくるんですよね。

この目覚めがイノチそのものであったということ、そしてイノチに始まりも終わりもなく、
境界線も存在しないということへの気づきなんです。

これは、思考の世界では理解できないことですし、納得できないことではありますが、
思考で納得しなければならないという執着、思考への依存もまた、
この目覚めによって薄まっていくんです。

※この辺の感覚についてあらゆるご質問にお答えします。
セッションキャンペーン中ですのでどうぞお気楽にご検討くださいまし。

takuteto.hatenablog.com

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