Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「私」をガンガン引っ剥がした先

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

夢を食べる動物としてバクという動物がいるじゃないですか。
いや、ホント〜に夢を食べるわけじゃないんですが、
麒麟や龍みたいな霊獣として、昔の日本では夢を食べるバクも霊獣として祀られていたらしいんですけどね。

この夢を食べる設定って、実は日本だけらしいんですよねー。
中国から伝えられた動物なんですが、中国では夢を食べるとは言われていないんだそうです。

ま、この夢を食べるってね。
ちょっと良い設定だな〜って思ったんですよ。

だって夢って、思考のストーリーじゃないですか。

僕らもね。
このストーリーをもうパクって食べちゃえば良いんじゃないか?
ってね。

ほら、僕らって目の前のごちそうには目を奪われますが、
パクっと食べてしまったものにたいしては、気にもとめませんよね。

そんな感じでね。
目の前にある思考に目を奪われるのなら、
もうパクっと食べちゃえばいいじゃん!ってねー。

ま、とはいえ、思考をどうやって食べるのよ!
って言われそうなので、この辺にしておきますが、
ただ、思考ってね〜。
いろんなことに「私」をくっつけてくるんですよね。

この「私」というのは、あくまで思考がくっつけた「私」なので、
思考が作り上げる「私」は私ではないんです。

この「私」をガンガン引っ剥がしていくと良いかもしれませんね。

 

「私」をガンガン引っ剥がす

例えば、
「私は、ここがダメだなぁ〜」
って思ったとしますよね。
でもそれは、「私」ではないんです。

「私はこういう人間です」
と思ったとしたなら、それもまた「私」ではないんですね。

また、
「私はこういう人間になりたいな〜」
って思ったとしたなら、その「私」は「私」ではありません。

「私はじぶんのこういうところが嫌いだな〜」
と思ったなら、それもまた「私」ではないんです。

はたまた、
「私はじぶんのこういうところが好きで気に入っている」
と思ったとしても、これまたそれは「私」ではないんですね〜。

ぜーんぶ、何かしらの経験や判断によって、良いとかダメだとか、こういう人間だ!
という思いが起こっただけなんです。

そこに「私」は存在していないんです。

気づき

では、「私」はどこにいるの?ってことなんですけどね。
僕らはすでにあらゆることに気づいているじゃないですか。
気づいているからこそ、「私はこうなんだよ〜」っていう考えが成り立っているわけですもんね。
この「気づき」が私なんです。

でもね。
この「気づき」とは、何らかの対象に気づいているということではないんです。

普通「気づき」といえば、
「雨が降っているのに気づいた。」
「あ、うしろから音がするのに気づいた。」
と言った具合に、何かしらの対象と気づきってセットになってたりしますよね。

でも、ここで言っている気づきは、何かの対象に向けたものではないんです。

対象に向けた気づきは、厳密に言うと気づきではなく、気づきを思考化したものなんです。
つまり、普通に「気づき」だと思っているものって、思考なんです。ストーリーなんです。
そこに「私が気づいた」といった具合に、「私」がくっついてくることでストーリーが進行していく訳ですが、それは、「気づき」ではなく思考なんです。

純粋な気づき

ここで言っている「気づき」は、思考化する以前の純粋な気づきです。
そこにはまだ何のラベルもはられていません。
単なる気づきなんです。

何のラベルもはられていないということは、いわゆる判断というフィルターを通る以前の気づきです。

だから、「ただの」気づきなんです。

そこに行き着くまで、ガンガンと「私」を引っ剥がして行けば良いんです。

そうすると、最後に残るのはただの気づき。純粋な気づきです。
それが「私」なんです。

そしてそのうち、その気づきは対象と同じであることが明らかになって来るんですね〜。
なので、その「私」も消えてなくなるんです。

あるのは、なんでも無い「無」だけになるわけです。
ですが、これこそ全てであり、あらゆるポテンシャルの大元なんです。

 

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