Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

コレってみんなすでに知っていたことなんだよね〜

はじめに

どうもおはようございます。
タクさんです。

指の爪が食い込んで定期的に指が痛くなってしまうタクさんです。
あれ、痛いですよね。
なので、キーボードで文字を打つのも若干憂鬱でございます。

さて、
「はーい!みんな、ちゅうもーく!」

って聞こえてきたら、フッとそっちを見ちゃいますよね。

そして、注目をしていると、他のものは見えなくなるわけです。

僕らってね。
なにかに注目すればするほど、見逃すものも多くなるんですよね〜。

これ、思い込みってのもそうですよね。
思い込んでいるというのは、ある種、注目しているということなんです。
そして、その思い込みのせいで、それ以外の多くを見逃してしまっているんですよね。

なので、あれれ?上手くいかないなぁ、、、。
って思っているときは、もしかしたら気づいていない思い込みがどこかにあって、
そのせいで大事なことを見逃している。
なんてこともあったりするんです。

 

注目するほど見逃されてしまうジレンマ

注目というのは、一点だけを注意深く見ることになります。
そして、注目すればするほど、全体像は見逃されるんです。

ですが僕らって、答えを求めているときはつい注目しようとしちゃうんですよね〜。

探求というのもそうです。
探求とは何を探しているのか?というと、どこに注目すれば良いのか?
ということを探しているって感じですもんね。

そして、その探求を続けている間は答えが見つからないっていうね。
そんなジレンマもあったりするわけです。

だって、全体って見ようとすればするほど見えなくなっちゃいますもんね。
反対に、一切の注目をやめれば、全体が現れてくるんです。

答えを探すのをやめる

ま、そういうわけですのでね。
何が答えなんだ?
どこにその答えはあるんだ?
ってね。
探せば探すほどに、今ココにある全体は見逃されてしまうんです。
だから、探すのをやめて、ただこの「今」にリラックスすればいいって事なんです。

注目だったり探求っていうのは、どこかしらに力が入っちゃってるんですけどね。
力を入れるのをやめれば、リラックスした今が蘇ってくるんです。

わからんままに在ってみる

どこに注目したら良いのか?と探し求めるのではなく、ただただ注目するのをやめる。
な~んにも注目しようとせずに在ってみる。

これは、なにかをわかろうとせずに、ただわからんままに在ってみるということです。
元々僕らはそうしてたんです。

物心ついた時というのは、何かがわかり始めた時です。
何がわかったのかと言うと、何でも無いものを分けることを知ったということなんです。
つまり、元々分離の存在しないこの世界で、仮想の分離をイメージの中でやり始めた時なんです。

そうして、思考の中で分離の世界を作り上げてきて、その分離のフィルターを通して世界をみることになったわけです。
そこで、注目という技術を習得し、それが繰り返され、習慣化したんです。

なので、何でもない今が見逃されているわけです。

知っていたことを知る

なんにもわかろうとせず、注目しようとせずに在ってみることで、
「あ、これ、知ってたわ!」
ってね。
なんとなーく思い出してくるかもしれません。

このことが思い出されるに従って、
「あー!何もかも思考の観念に置き換えてみていただけで、実際にはその観念って実在しないんじゃ〜ん!」
ということもまた、思い出されてくるんです。

この思い出すというのは、記憶を思い出すわけじゃないんです。
なんでもない今が、ずっとここにあったこと。そしてそれをすでに知っていたこと。
このことを、観念や記憶ではなく、感覚的に思い出すんです。

 

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