Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

幸福追求のジレンマ

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

日本国憲法には、
幸福追求権というものがございます。

公共の福祉に反しない限り最大の尊重を必要としている権利だということです。

ぼくらは生きているうえで、やっぱり幸福を追求するということこそ、
最大の目的と言えますもんね。

仕事を持つこと。
家族を持つこと。
趣味に没頭すること。

なんでもいいですが、それらはやはり幸福の追求のためにあると言っても、
過言じゃないですもんね〜。

でも時々、僕らはそれを忘れちゃうことがあるんですよね。
そうすると、仕事をするうえで無理しちゃったりしてね。

本来の目的は幸福の追求であったことを忘れると、
いつのまにやら、

ワシはなんのために生きていたんだっけ??

ってなったりするわけです。

なんのためって?
そりゃー
あなたは、幸福になるために生きているんです。

でもこの幸福の追求がうまくいっても、
僕らはこの幸福は一過性のものであるっていうのに気づいちゃうっていうねー。
そんなジレンマもあったりするんですよねー。

 

幸福の追求のジレンマ

幸福の追求の一環として、
ぼくらは大体は、快楽や快適さ、そして安心さを求めます。
そして、それらを担保するための地位や環境を求めるわけです。

ただ、その環境を得た時に僕らは気づくんですよね。

「うほっ!これって一過性のものじゃん!」
ってねー。

そして、今度はこの状態を保たなければならない!って思っちゃうわけですが、
そうなると、あら不思議。
安心や快適さを味わう暇もなく、幸福を失う恐れに変わってしまうんです。

幸福を追求すればするほどに、そんなパターンにはまってしまうんです。

そして、このパターンからどうにか抜け出すために、
例えばスピリチュアルな何かにその答えを求めたり、
あらゆる教えにその答えを求めたりして、
いわゆる探求がはじまるんです。

幸福は常に一過性のものなのか?

幸福を追求しても、それは一過性である。
この事に気づいた瞬間、幸福を失う恐怖に取り込まれてしまう。
っていうのであればね。

幸福って追求してもそれを得ることって出来ないんじゃん!
ってことになっちゃいますよね。

「え〜!そんなぁ・・・」
って話です。

どうしたらいいのよ〜って思いますもんね。

ここでね。
幸福を追求しても幸福を手に入れることができない。
っていうのをね。
逆手に取ってやれば良いんです。

逆転の発想ってやつですね。

幸福の追求を逆手に取る

逆転の発想?
どういうこと??

ってことなんですけどね。

幸福を追求というのは、どこかにあるはずの幸福を探すってことじゃないですか。
これをやめてみるっていうことです。

幸福がどこかにあるという思いが、ここには幸福がないという思いを増幅させているんです。
ここには幸福がないという結論を持つことで、その理由が山程出てきてしまうってやつですね。

これは、思考ちゃんの習性としてそうなっていて、
例えば、『赤いもの!』って思うだけで、自然と視線は目の前の赤いものを探してしまうっていうね。
そういう習性をもっているんです。

ただ、いまココにじっとしてみよう

というわけで、僕がおすすめするのは、
ただただ、今にリラックスしてみるということです。

今にリラックスするには、まずじっとしてみようということでもあります。

何かを探そうとする行為を、今だけやめてみるんです。
あ、仕事中だから無理!って人もおられるかもしれませんが、そういう場合は、ちょっとした休憩時間にやってみるのをおすすめします。

探求をやめるのと、仕事をするのは、実際は矛盾しておりません。
どこかに向かって歩いているのと、探求をやめるのもホントは矛盾していないんです。

でも、思考のおしゃべりは常に何かを探求させようと急かしてきますからねー。
ついつい探求の波に飲み込まれてしまうんです。

あらゆるおしゃべりをストップしてみた瞬間、
幸せや安心、そして平安はどこかにあるものじゃないということを知るんです。

それは常に、いまココにずっと在るものだったんですね〜。

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